mn'95blog

日記の・ようなものです

9月8日 田舎司祭の日記

空気も空もすっかり秋らしくなりました。季節の変わり目だからかわかりませんが、何かやってみようという意欲がわいてきたので、気まぐれに書いていた日記を、文字通りその日の記録として毎日書くことにしようと久々にブログを開きました。

意欲がわいてきたならそれをほかのことに使うことも可能ですが、日記を書くことにしたのは、今日ブレッソンの『田舎司祭の日記』を映画館で見てきたからかもしれません。本作は、4Kデジタルリマスター版の公開が6月に始まり、全国の劇場で順次公開されています。先日『ラルジャン』をBlu-rayで見て、すっかりブレッソンが好きになったのですが、タイミングよく『田舎司祭の日記』が上映されるということで劇場に足を運んだわけです。白状すると、それまでは『バルタザールどこへ行く』しか見ておらず、しかも見たときはあまりピンとこなくて、それからなんとなく敬遠していました。が、そうしているうちに、「仮にも映画が好きと言っているのにブレッソンを見てないなんて!」と勝手にブレッソン・コンプレックスに陥り始めたので、これはいけないと『ラルジャン』のBlu-rayを買って、今に至ります。(ほかにも色んなコンプレックスに陥っていますし、もっと見ないととは常に思います。)

コンプレックスについて書く始めると長いし鬱々としてしまいそうなので、話を『田舎司祭の日記』に戻しますが、まず劇場で見てよかったと思いました。クレジットが流れる後ろにある一冊のノート。これがおそらく司祭の日記なのだろうと眺めていると、画面の端からすっと手が伸びてきてページを捲る。この手が美しくて、それだけで見に来てよかったなと思いました。『ラルジャン』も手が雄弁で美しかったですし、ブレッソンは手を撮ることに長けている人なのだとブレッソンビギナーの私でも思います。

話としては、田舎の教区にあたらしく若い司祭がやってきて、そこで善行に励むのですが、村人との間には溝があり、むしろ彼は村人に拒絶されてしまう。しかも彼は病気で、心と一緒に身体も弱っていく、そんな話です。キリストの受難になぞらえた話なのだろうと理解しています。病気で弱った司祭がめまいに倒れた時、少女が汚れた司祭の顔を布で拭ってやりますが(その後司祭は少女から布を受け取り自分で顔を拭く)、このシーンも聖ヴェロニカの聖顔布を思わせるし、司祭が終盤で出会う神学校時代の友人の恋人はマグダラのマリアを思わせます。キリストの受難を追っているという点は、今たまたま読んでいる『映画とキリスト』(岡田温司みすず書房)を確認してみると、同様の指摘がありました。(全く気付いていなかったけれど、この本の表紙が『田舎司祭の日記』でした。なんたる偶然。映画を見ているとこういうミラクルってよく起きるなと思います。その日適当に見た映画全部で主人公が刺されて死ぬだとか、そんな風にあらゆることが繋がってしまう。)

ショットも美しかったです。特にお気に入りなのは、終盤の司祭がバイクで駅に送ってもらうシーンです。あのシーンだけブレッソンらしい無表情は崩れ、司祭がそれまでの苦悩を忘れたかのように微笑むので、心を奪われました。前にもこんなことがあったなと考えていたら、カウリスマキの『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』に思い当たりました。あれにもふっと主人公が笑うシーンがあって、それがすごく印象的でした。

とにかく、『田舎司祭の日記』は見てよかったなと思います。もう少しすれば『やさしい女』もリマスター版が公開されるので、そちらもすごく楽しみです。

 

今日はそれに加えてもう1本、『全員切腹』を見ましたが、長くなったのでこちらの話は明日に持ち越したいと思います。こんな感じでとりあえず毎日何かしら書き続けていこうと考えています。ではでは。