mn'95blog

日記の・ようなものです

2/13 春原さんのうた

昨年の春に仕事を辞めて関東に越してきてから約半年、無職でのびのびと暮らしてきたのものの、貯金も減ってきたしそろそろ働くかと転職活動を本格化させました。そして先月の半ばから再び働きはじめ、週明けで丁度一ヶ月となります。長く働いていなかったのでどうなることかと心配だったけれど、走り出すと案外平気なもので、新しい仕事もそれなりにやりがいを持って楽しくやれていると思います。直属の上司がラガーマンみたいな体型のとても大きな人で、且つとても優しくて、なんだか童謡の「森のくまさん」のくまさんみたいな人だなあとほのぼのした気持ちになりながら働いています。ちなみに、ラガーマンだったことは一度もないらしいです。

とはいえ、生活のリズムが少し変わって気疲れしていたのもあって、最近は映画を見ることが少し減っていました。今年に入って見たのはたったの20本。うち新作は『ドント・ルック・アップ』『ボストン市庁舎』『ハウス・オブ・グッチ』『春原さんのうた』『ロスバンド』『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』の6本。

この6本で特に良かったのは『春原さんのうた』。杉田監督の作品は『ひかりの歌』が気になりつつも見たことがなく、これが初めてでした。「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダ―」という、東直子さんの短歌を元に作られた作品です。説明的なシーンはほとんどなく、主人公・沙知の日常を淡々を写し取ります。だからはじめは登場人物たちがどんな過去を持っていて、どんなことを考えていて、というのが全く分かりません。見ていくうちに、どうやらこの人は恋人を失ったらしい、そしてそんな彼女を周りの人たちは心配しながらもつかず離れず見守っているらしいと分かります。けれど、それ以上は分かりません。沙知がどんな人かも、彼女の恋人らしい「春原さん」がどんな人で何故もう会えない人なのかも、ふたりがどんな時を過ごしてきたのかも、それは分からないまま映画は終わります。でも、分からないことに対して、ネガティブな感情は一切湧いてこない。他人との距離感は、本来こういうものだと思っているからかもしれません。わたしが誰かと関わるとき、わたしがその人と過ごす時間は、その人の人生のほんの一瞬です。そこから知れることなんて、たかが知れています。たくさんあるうちの二三面を見ているだけで、残りの何十何百という面は見ることなくお互い死んでいくのでしょう。それは決して悪いことでも、その人との関係の薄さを表すことでもないと思います。どうやったって他人のすべてを知ることなんてできないのだから、二三面しか知らないというのが普通というか、一般的ではないでしょうか。でも二三面しか知らなくても、その二三面を深く愛することはできる。たくさん知っている=関係が厚いというのではないと思います。

知っていることより分からないことのほうが多く、その分からないという余白はわたしを遠ざけるものではなく、むしろわたしを拒まないやさしさのように感じる。『春原さんのうた』は、わたしにとってそんな作品じゃないかと、すごく感覚的に思います。少ししか知らない沙知のことを、想っている自分がいます。わたしたちは友人でもなんでもないけれど、「お互いささやかな毎日をなんとか生きていきましょうね」と声をかけたくなる。沙知はこの世界のどこかにいるんだと思います。当たり前に存在していて、わたしと同じように生きている。同時に、わたしもこの世界で生きている、とこの作品を見ていると思います。わたしが消えても世界は何ら変わらないということを、当たり前に思える日もあれば、それが悲しくなる日もあります。自分とはなんて不確かで透明な存在なんだろうと思って泣きたくなる日もあります。『春原さんのうた』を見ると、そんなわたしも確かに存在しているのだなと思えます。つらいこともうれしいことも、すべては日常へ帰っていき、人はそこで生きていくだけです。それが特別なことでなくただ日常として流れているこの映画は、誰にとっても帰っていける場所です。誰かを拒まないということは、こんなにも優しく感じるのだなとなんだかあたらしい気持ちになりました。

自分でも何を書いているのかよくわからなくなってきたところで今日は終えたいと思いますが、『春原さんのうた』が良い作品であるのは間違いないので、多くの人が出会えると良いなと願うばかりです。

 

『ロスバンド』『ボストン市庁舎』もかなり良かったし、最近読んだ本もとても良かったし、と大切にしたいと思える作品にたくさん出会えているので、それらについても文章を残しておきたいと思うけれど、果たして書けるかな……。