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日記の・ようなものです

こんな世の中だからこそ愛とか頼りに生きていこうと思う

文章が書きたい気がしながらもパソコンを開く気力もなかったり、逆にそんな暇もないくらい何かに夢中になっていたり、そんなこんなでいつの間にか時間が経ち、久方ぶりにブログを開いた。

 

最近はといえば、ホワイトでいい会社だと思って働いていたら、身近でハラスメント事案が起きて、それに対する組織の対応と、組織のなかにいる人間の頭の悪さ(悪意ある表現かもしれないけれど最早そうとしか思えない)にうんざりして、日々何かに怒っている。ハラスメント事案がなくても、毎日何かに怒って生きてはいる気がするけれど。不機嫌にもなるよなフェミニストは。2023年、新しい年を迎えてなお、私たちは「おじさん」と戦わなくてはならないのかと、新年の晴れ晴れとした気持ちは何処へやらといった状況に、また私のなかで怒りがむくりと起き上がってこっちを見ている。

 

私たちは別に何かすごい特権がほしいんじゃなくて、人の尊厳とか、あって当然の権利とか、そういうのを踏みにじられないように、不当な扱いを受けないようにしたいだけで、マイナスな今をゼロにしてほしいだけなのに。そもそもマイナスであることを理解してもらえず、いささか騒ぎすぎではと首を傾げる「おじさん」に、何を、どう言えば良いのか。あの悪魔的な無自覚・無理解……。首を傾げたいのはこっちだし、何なら傾げすぎてもう取れそうなんだが。

 

会社のような組織は、そういう「マイナス」がなくなるよう努力してほしいと心底思う。女性もそうだし、勿論それ以外の全員が。最低限、研修なんかでジェンダーについて学ばせるとかしないと、しんどい。内心どう思っていようが会社として「これはダメですよ」と組織の公式見解を示すことは、人の心は変えられなくても、多少なりともふるまいを変えさせる抑止力にはなるだろうから。

 

話は少し逸れていくけれど、ジェンダーに関して言えば、年末に『新しい声を聞くぼくたち』を読んだのが面白かった。また新しい「目」が自分のなかにできた気がする。年が明けてからは、気になっていた『姫とホモソーシャル』を買ってみたのだけれど、「姫」を取り上げた本と言えば有名な『お姫様とジェンダー』を読んだことがないんだよなあと、そちらが頭にちらついてしまい、先にそっちから読み始めた。前者は後で読もうと思う。『お姫様とジェンダー』もまだほんの序章しか読めていないけれど、同書が2000年代初頭に書かれたという時代背景を感じつつも、まだまだ前述のように私たちは怒ったり傷つけられたりしていて、同書が書かれた時からもしかしたら状況はそう大きく変わっていないんだろうかと指先が冷たくなる感覚がしている。だからこそ、かもしれないが、私は、私たちが置かれている状況を良くしていくために、何ができるのか考えられるよう、知識や色んな「目」を持っておきたい。おかしな奴がおかしなことを言ってきたときに、それに負けない知を持っていたい。純粋に知りたいという好奇心もあるけれど、そんな気持ちもあって2023年も色々読んで学んでいきたいなという気持ちです。

 

 

 

まあ明るくはない怒りまみれの文章で始まってしまったけれど、楽しいことは楽しいことでちゃんとあって。大好きなアイドルを応援するのは本当に生きがいといっても良いし、素敵な小説や、かっこいいバンド、そういうものに日々心が満たされていると思う。昨年雷に打たれたように惚れ込んだコレクターズのライブに行って、やっぱりコレクターズはカッコいいと心の底から感じた。コレクターズは昨年、新しいアルバムを出して、先日のライブもその新譜からセレクトされた曲が多かった。

ジューシーマーマレード、どの曲にもそれぞれアツい思いがあるのだけれど、特にどれが好きと言われたら「パレードを追いかけて」という曲に「君の好きな服を着て 好きなアクセント 喋ればいいのさ」という歌詞があって、そこがいつもぐっときて特別この曲が好きだと思ってしまう。コレクターズの持つカッコよさは「ダンディズム」と言われることも多いけれど、コレクターズのダンディズムは決して「男はこうあるべき」という誰かを何かの規範に押し込めるヘンな美意識ではない。コレクターズはそういうカッコよさを持っているというだけで、周囲にそれを押し付けるなんてことは一切ない。だからこそ「パレードを追いかけて」みたいな歌詞を加藤さんは書けるわけで、コレクターズのダンディズム的なカッコよさは、私たちが大切にしている別なものと矛盾はしない。一緒に存在できる。

私は沢田研二さんの大ファンだが、ジュリーと言えばそういうダンディズム的なカッコよさと不可分な存在だ。郷ひろみがジュリーを「右手にロックンロール、左手にダンディズム」と評したこともある(ふたりのビックショー共演時)。ジュリーを好きになって早5,6年が経ったが、ずっとそのことが引っかかってきた。ダンディズムという言葉が果たして適切か怪しい部分もあるが、ジュリーの持つダンディズム的なカッコよさは、誰かを不当なジェンダーに押し込めてしまうこともある。曲を聴いていて「ん?」と思ってしまうこともある(これはジュリーだけでなく昭和の頃に作られた一部の曲にはよくあることかもしれないが)。普段色々な不平等に怒り狂っているにも関わらず、ジュリーのダンディズム的なカッコよさには陶酔し、普段なら疑問に思うようなことも、彼の前では目をつぶってしまう自分がいて、それに悩んできた。自分のなかでは大きな矛盾だった。

そんな矛盾を抱えたまま出会ったのがコレクターズだった。一気に好きになるとともに、すぐにコレクターズもダンディズム的カッコよさを持っているバンドだと気付いたし、自分がそういうカッコよさに特別惹かれる人間なんだということも、同時に理解していた。そしてまた悩んだ。自分にとって、ダンディズム的カッコよさは、フェミニストとしての自分や、その他色んな不平等や価値観と戦う自分と矛盾するものだったから、コレクターズという素晴らしいバンドと出会ったとてつもない喜びともに、またこの苦悩が始まるのかと暗い気持ちにもなっていた。そんな悩みを持ちながら、コレクターズを聴いていたのだけれど、ある日別にコレクターズのカッコよさって、私の大切にしたい他のものを矛盾しないのではと気付き、そんなタイミングで新譜も出て先述の「パレードを追いかけて」に出会い、矛盾していないということがはっきりして、私はやっと靄が晴れた状態でコレクターズを愛することができるようになった。

コレクターズ、本当にカッコいい。聴いていて、ライブで見ていて、あとはインタビューを読んで、思うのは、加藤さんってとても愛に溢れた人で、その世界観を表現できるのがこのコレクターズで、近年ますますその加藤さんそのものがバンドにも表れているんだろうなということ。「ジューシーマーマレード」は、まさにそういうアルバムだったと思うし。先日あったライブで「世界を止めて」を聴きながら、あまりの愛の深さに、やさしさに、色々あるけれど、悲観的にならずに、愛とか信じて生きていきたいなと、そんなことを思わず思ってしまった。色んなことに怒っている私だけれど、怒るのが本質ではなくて、単に幸せになりたいし、誰かの幸せが阻害される世の中なんでくそくらえと思っているだけだから。怒って疲れて挫けそうなときに、コレクターズの愛に助けてもらおうと思う。やさしさで、とげとげした心を、まるくしようと思う。

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音楽や、本や、その時々で色んなものに支えられていて、私はこの先も生きていけるし生きていくしかないなと思う今日この頃でした。

2/14 ロスバンド

昨日書ききれなかった『ロスバンド』について今日は書きたいと思います。本作は現在絶賛公開中の作品ですが、上映館が少なくわたしも本作の存在につい三四日前まで気付いていなかったくらいです。たまたま上映館のひとつのシネマート心斎橋さんのツイートを見て「これは絶対好きなやつだ!」と思い、上映館を調べ、関東住みのわたしは翌日新宿のシネマカリテに駆け込みました。

www.culturallife.jp

一言でまとめると、本作は「ノルウェー発青春ロックロードムービー」です。もうこれだけで「あれ、好きかも」とうずうずする人もいるんじゃないでしょうか。ロック、青春、ロードムービー、わたしもこれらが大好きです。

ノルウェーの田舎の村で暮らすグリムとアクセルの幼馴染二人組は、ロック大会への出場を夢見て練習に励む日々を送っていましたが、ついにデモが審査を通過し、遠く離れた北の町・トロムソで行われる大会へ出場できることに。大会に向けてパワーアップをしようと、バンドに不在だったベーシストを募集すると、やって来たのは9歳のチェリストの少女ティルダ。そしてそんな風変りな構成のバンドを、運転手としてトロムソへ運ぶことになったのは、近所に住むハイティーンのマッティン。ちぐはぐな4人を乗せて車は走り出しますが、さてこの旅はどうなるのでしょう。

グリムは両親の不和に、アクセルは恋に、ティルダはひとりぼっちなことに、マッティンは親の決めた人生を歩むことにそれぞれ悩んでおり、この旅路を通じてそれぞれの抱える問題に向き合い、それを乗り越えようとします。よくある感じと言えばそうですが、こういう普遍的なティーンの悩みは何度描かれても良い。それぞれの問題を乗り越えるとき、そこには必ず音楽があり、仲間がいるというのが本作では一貫しており、素敵なところです。ぐっときてしまう。

4人ともとても魅力的ですが、特にわたしはこの4人のなかで一番のお兄さん・マッティンに惚れ込んでいます。マッティンは親の敷いたレールの上を歩きながら、しかし本当は自分で人生を選び取りたいという葛藤を抱えた17歳です。そんな苦しみがあるからか、他の3人に接するとき、自分よりも子どもだからと彼らを軽んじることなく、彼らの気持ちを尊重して寄り添う姿が素敵すぎます。我らがマッティンはむやみやたらに励ましの言葉や教訓じみたことは言いません。彼は静かに隣に座って、相手が自分の思いを口にするのを待ちます。相手の思いを聞いてはじめて、道しるべとなるような言葉をあくまでもそっとやさしく発するのです。嗚呼マッティン、君はなんて素晴らしい……。わたし26歳だけどそんなことできないよ……。それだけでなくマッティンには隠れた才能もあり、それもまた彼に惚れちゃうポイントのひとつです。運転もうまいし、惚れるなというのが正直難しいです。

マッティン愛に暴走しかけましたが、『ロスバンド』はくすりと笑えてでも心に沁みる気持ちの良い1本です。登場人物たちと同じティーンが見てもきっと大切な作品になるだろうし、我々大人が見てもまた別の形で大切に思えるきらめきのある作品だと思います。変なクセのない作品なので、誰にでもおすすめできますね。何回も言って申し訳ないけれど、上映館が少ないのでゆくゆく配信をしてほしいなあと思います。たくさんの人が本作に出会えますように。そしてみんなでマッティンの話がしたいです。

 

2/13 春原さんのうた

昨年の春に仕事を辞めて関東に越してきてから約半年、無職でのびのびと暮らしてきたのものの、貯金も減ってきたしそろそろ働くかと転職活動を本格化させました。そして先月の半ばから再び働きはじめ、週明けで丁度一ヶ月となります。長く働いていなかったのでどうなることかと心配だったけれど、走り出すと案外平気なもので、新しい仕事もそれなりにやりがいを持って楽しくやれていると思います。直属の上司がラガーマンみたいな体型のとても大きな人で、且つとても優しくて、なんだか童謡の「森のくまさん」のくまさんみたいな人だなあとほのぼのした気持ちになりながら働いています。ちなみに、ラガーマンだったことは一度もないらしいです。

とはいえ、生活のリズムが少し変わって気疲れしていたのもあって、最近は映画を見ることが少し減っていました。今年に入って見たのはたったの20本。うち新作は『ドント・ルック・アップ』『ボストン市庁舎』『ハウス・オブ・グッチ』『春原さんのうた』『ロスバンド』『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』の6本。

この6本で特に良かったのは『春原さんのうた』。杉田監督の作品は『ひかりの歌』が気になりつつも見たことがなく、これが初めてでした。「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダ―」という、東直子さんの短歌を元に作られた作品です。説明的なシーンはほとんどなく、主人公・沙知の日常を淡々を写し取ります。だからはじめは登場人物たちがどんな過去を持っていて、どんなことを考えていて、というのが全く分かりません。見ていくうちに、どうやらこの人は恋人を失ったらしい、そしてそんな彼女を周りの人たちは心配しながらもつかず離れず見守っているらしいと分かります。けれど、それ以上は分かりません。沙知がどんな人かも、彼女の恋人らしい「春原さん」がどんな人で何故もう会えない人なのかも、ふたりがどんな時を過ごしてきたのかも、それは分からないまま映画は終わります。でも、分からないことに対して、ネガティブな感情は一切湧いてこない。他人との距離感は、本来こういうものだと思っているからかもしれません。わたしが誰かと関わるとき、わたしがその人と過ごす時間は、その人の人生のほんの一瞬です。そこから知れることなんて、たかが知れています。たくさんあるうちの二三面を見ているだけで、残りの何十何百という面は見ることなくお互い死んでいくのでしょう。それは決して悪いことでも、その人との関係の薄さを表すことでもないと思います。どうやったって他人のすべてを知ることなんてできないのだから、二三面しか知らないというのが普通というか、一般的ではないでしょうか。でも二三面しか知らなくても、その二三面を深く愛することはできる。たくさん知っている=関係が厚いというのではないと思います。

知っていることより分からないことのほうが多く、その分からないという余白はわたしを遠ざけるものではなく、むしろわたしを拒まないやさしさのように感じる。『春原さんのうた』は、わたしにとってそんな作品じゃないかと、すごく感覚的に思います。少ししか知らない沙知のことを、想っている自分がいます。わたしたちは友人でもなんでもないけれど、「お互いささやかな毎日をなんとか生きていきましょうね」と声をかけたくなる。沙知はこの世界のどこかにいるんだと思います。当たり前に存在していて、わたしと同じように生きている。同時に、わたしもこの世界で生きている、とこの作品を見ていると思います。わたしが消えても世界は何ら変わらないということを、当たり前に思える日もあれば、それが悲しくなる日もあります。自分とはなんて不確かで透明な存在なんだろうと思って泣きたくなる日もあります。『春原さんのうた』を見ると、そんなわたしも確かに存在しているのだなと思えます。つらいこともうれしいことも、すべては日常へ帰っていき、人はそこで生きていくだけです。それが特別なことでなくただ日常として流れているこの映画は、誰にとっても帰っていける場所です。誰かを拒まないということは、こんなにも優しく感じるのだなとなんだかあたらしい気持ちになりました。

自分でも何を書いているのかよくわからなくなってきたところで今日は終えたいと思いますが、『春原さんのうた』が良い作品であるのは間違いないので、多くの人が出会えると良いなと願うばかりです。

 

『ロスバンド』『ボストン市庁舎』もかなり良かったし、最近読んだ本もとても良かったし、と大切にしたいと思える作品にたくさん出会えているので、それらについても文章を残しておきたいと思うけれど、果たして書けるかな……。

1月5日 マイ・プレシャス・リスト

また放置してしまったので、久々に書くことにしました。三日坊主すぎる。今日は映画を見なかったので、昨日見た『マイ・プレシャス・リスト』について。

高いIQを持ついわゆる神童だった主人公キャリーは、4年飛び級をしてハーバード大学に入学し、10代にして学位を修める。19歳になった彼女は、今も将来を決められず、仕事もせずにひとりで暮らしている。人と関わるのが苦手な彼女には友達もおらず、たった一人の家族である父は遠く離れたロンドンで暮らしており、稀にしか会えない。そんな中唯一の話し相手は自身のセラピスト(父の親友でもある)。人と関わろうとしない彼女を想って、ある日セラピストは彼女が幸せになるためにすべきことを書いたリストをキャリーに手渡し、キャリーはそれを実行していくことになる。彼女は果たして幸せになれるのか――という内容。

ペットを飼うだとか、友達を作るだとか、デートをするだとか、そういったリストの項目をクリアしながらキャリーが自身と向き合い、他人に心を開いていく様子は応援したくなります。特に父親との関係については、ぐっとくるシーンも多くて、想い合っているのにすれ違ってばかりだったふたりが、ある一件を通して素直に感情を伝えられるようになるところは少し泣いてしまいました。あそこがこの物語のラストでもよかったくらいです。

ネタバレになるかもしれないですが、最後この映画は「自分を認め受け入れてくれる素敵な恋人と結ばれてハッピーエンド」というありがちな結末を迎えます。そこがちょっとがっかりでした。これは彼女が他人と関わるなかで「幸せ」を手にする話で、実際キャリーにはちょっと変な親友もできたし、不在だった父親の愛情も手にした(というかずっと愛されていたことを認識できた)し、セラピストとも信頼関係を築けたし、そうやって人と関わるなかで彼女は色んなものを得ました。得ると同時に相手に与えてもいます。でもそれでよしとはしてくれません。最後は結局素敵な恋人です。恋愛の成就が幸せの最高潮、幸せの象徴、そういうことです。友情や家族の愛情、他人との信頼関係、それだけでは彼女の幸せは不完全で、恋愛の成就があってはじめてパズルが完成するような、そんな描き方。

恋愛の成就が幸せの一つの形とすることには異論はありませんし、そういう価値観を持つ人がたくさんいるのもまた事実ですが、それが一番の幸せ、という風に提示されるとなんか他になかったのかなあと思ってしまいます。恋愛の成就なしに女性は幸せになれないんでしょうか、そんなことないのに。

キャリーは過去に恋愛で深く傷つき、その経験から他人と関わることを避けるようになっているので、ラストの恋愛の成就は直接的に過去の克服になり、物語としては分かりやすいし、整合性も取りやすいですが、恋愛の傷は恋愛でしか克服できないというのもなんかいまいちだなあと思ってしまいます。

いまいちというか、正確には今自分が見たい物語じゃないのだろうなあと思います。恋愛とか結婚とか、そういった過去に「女性の幸せ」とされてきたことを用いて、女性の幸せを描く話を、自分が全然欲してないのだと思います。もっといろんな形でわたしたちは幸せになれるので、もっといろんな形の幸せの物語を見せてほしい。『マイ・プレシャス・リスト』は「もっといろんな形の幸せ」がちりばめられているからこそ、ちゃんと描いているからこそ、余計に最後恋愛に全部持っていかれるのが惜しいと感じてしまうのだと思います。

もっといろんな幸せの物語を今年はたくさん見たいですね。そのためにはたくさん見ないとだなあと思います。何本も何十本も、もしかしたら何百本も見ないと、自分にびびっとくる作品に出会えないかもしれないので。色々文句を綴ったけれど、リストを作成して、一項目達成する度にその証拠をポロライドカメラにおさめるという方法は良いなあと思うので、マネして自分も新しいことに色々挑戦してみたいなあと感じました。ポロライドがスマホになるかもしれないけれど。早速、新しい挑戦として近々エステに行って全身マッサージされてくる予定です。前からやってみたかったのに、なんか行ったことがなくて。そういうことを今年はどんどんやっていきたいですね。では、今年もよろしくお願いいたします。

9月16日 名前のついていない「特別」という感情

数日前、配偶者と「アメトークの『〇〇芸人』みたいに何かについて語る場があったとしたら、何について語る?」という話をし(楽しかったです)、わたしは好きな映画や漫画、アイドルなんかを挙げました。その後、浴槽に浸かりながら、「語れると言ったけれど、いざ話すとなると自分が感じている魅力をうまく言語化できるだろうか」と疑問を抱いたので、今日はここで試してみようと思います。

語りたいのは、『あちらこちらぼくら』という、ジャンルで言えばBLに分類される漫画についてです。上下巻で、現在続編が連載中です。

↓続編

わたしは漫画なら何でも読むという感じで、BLや百合に分類されている漫画も結構読みます。BLは煽情的なシーンが多く、その面を全面に押し出している作品が目立ちますが、BLレーベルから出ている作品でも、エロを押し出すことなく心情の描写に重きを置いた良作があって、特にそのような作品を好んで読んでいます。『あちらこちらぼくら』もそんな作品です。

『あちらこちらぼくら』の好きなところは、メインとなるふたりの関係を、はじめから恋愛ありきのものとして描いていないところです。恋愛関係に発展していく様や、恋愛関係になってからの様子を描く作品が多いなか、『あちらこちらぼくら』は恋愛でも友情でもない、ただ相手を特別だと思う、はっきりとした名前のついていない感情を描くのに終始しています(下巻末で恋愛に発展したような描写はありますが、明言はされていません)。同じ高校に通うふたりが出会い、相手のことを知っていく、そして次第に相手を「特別」に思うようになっていく。しかし、その感情を恋だとはふたり自身も思いませんし、そのように明言する描写はなされません。友情と呼ぶのもしっくりこない、けれども恋愛と呼ぶのも何か違う、その間ともいえるような、ただ相手を「特別」だと思う気持ち、それを描いているのが本作です。

自分の気持ちがうまく整理できなくて、「これってどういう感情なんだろう?」と考えることってあるじゃないですか。そういう時、自分の気持ちを理解するために、既に名前のある感情に当てはめて考えてみる人は多いのではないかと思います。「これは恋かな?それとも友情かな?」みたいな感じで。でも、もしかするとその感情は、まだ恋とか友情とかいう言葉になっていない感情かもしれない。そんな風に、既にある言葉の枠組みに収まらない感情って、まだまだあるのではないかと思うんです。『あちらこちらぼくら』は、そんな名前のついていない「特別」としか言えないような感情を、厚めのコミック2冊分の紙幅でたっぷりと描いている。そこが素晴らしいし、他の作品と違う部分だと思います。エロだったり、奇抜な設定だったり、そういう良くも悪くも劇的で分かりやすいキャッチ―な要素がないBLでも、良いものはちゃんと売れるんだなと、個人的には希望を持てた作品でもあります。

ちなみに、恋愛関係になるわけではないので、BLで描かれがちな肉体関係をふたりが持つこともなく、そういったシーンが苦手な人も全然読める作品です(恋愛については続編で描かれるので、続編にはそのようなシーンもあります)。

全然うまく魅力を伝えられていないと思いますが……、ぜひ読んでみてほしいです。それでは今日はこの辺りで。

 

9月14日 金木犀の香り

最近、歩いているとどこからか金木犀の香りがしてきて、金木犀の木を探してきょろきょろすることがよくあります。今住んでいる土地に越してきてまだ1年経っていないので、季節の変わり目はあたらしい発見が多くて楽しいですね。実家の玄関先に金木犀があったので、金木犀の香りはどこか懐かしく、それもあってか、秋はつい金木犀がある道を選んでしまいます。

金木犀の香りは、祖父が亡くなった日のことを思い出すので、そういう意味でも思い入れがあります。母方の祖父が亡くなったときのことはよく覚えています。わたしは高校2年生でした。家に1人でいたら、仕事に行っているはずの父が突然帰ってきたので、玄関まで出迎えに行きました。開いた扉の隙間から、金木犀の香りが家の中に入ってきて、いい香りだなと思ったのを覚えています。急に帰ってきてどうしたのかと聞くと、父は少し間をおいて、ぽつりと「おじいちゃんが亡くなった。」と言いました。祖父が病気でもう長くはないことは分かっていたけれど、それでも悲しかった。

祖父はコーヒーが好きで、といってもこだわりの豆とかそんなのはなくて、缶コーヒーをよく飲んでいました。大工をしていたので、そういうこともあって缶コーヒーに馴染みがあったのかと思います。私が生まれる頃にはもうやめていましたが、昔は煙草も好きだったそうです。そんなこともあって、祖父の末期の水は、水ではなくコーヒーでした。わたしも、葉にコーヒーをつけて、祖父の口元にそっと当てました。このことも特別印象に残っています。

残された祖母も高齢になり、今やかなりぼけています。会えるうちに会っておきたいですが、この状況で四国の実家に帰ることもできず、会えていないのが気がかりです。会えないままに家族と別れることとなった人もたくさんいるようですし、自分もそうなってしまったらと不安になります。好きなときに、好きなところへ行けるように、はやくなってほしいと心の底から思います。

9月13日 推しが「女性にしてほしい服装は?」と聞かれているのを見るのがつらい

また日付が変わってから書き始めてしまったのですが、13日の日記です。

1年半ほど前に雷に打たれたように一人のアイドルにハマり、今やSNSやイベント情報のチェックも日常となりました。インスタのストーリーが更新されていないことを毎日何度も確認しては、すっかりハマってしまったなと思います(稀にしか更新されない)。今まで男性アイドルに限らず、「アイドル」というものを応援したことも、特別好きになったこともありませんでした。テレビで見て、なんとなくキラキラしていて素敵だなと思うことはあっても、それ以上もそれ以下もありませんでした。特別ファンになるというと、俳優ばかりでした。そんな私にも所謂「推し」という存在ができて、変な感じがしています。「推し」という言葉については、「ちょっと好き♡」くらいの人も使うくらい一般化してしまい、この一言では自分の好き加減を正確に表すことができないので、あまり好ましくないなとは思うのですが、便利でキャッチ―なのでつい使ってしまいます。他に適切で、しかも簡潔な言葉を早く見つけたい。

そんなこんなで偶像崇拝をするようになった私ですが、インタビュー記事を読んでいると、「女性にしてほしい服装は?」とか「女性にしてほしい髪形は?」とか「結婚するならどんな人がいい?」とか、そんな質問を目にすることが度々あって、現代においてまだそんな質問をしているのかと肩を落としてしまいました。男性アイドルが主に女性をターゲットとしていることは勿論分かっているし、なかには「自分の推しの好みに近づきたい」「好みに近づくことでもっと好かれたい」と思うファンがいて、そういう質問にもニーズがあることも分かっていますが、それでもこのような質問はあまり良いとは思いません。こういう時、異性愛が前提になるんだなと改めて思わされるのも嫌だし、結婚はみんな通る道みたいな感じも嫌だし、自分の意志で決められるはずのファッションが、誰かによって決められるものとして扱われることも嫌です。ファンも女性だけではないし、女性にも色んな人がいます。だから、せめて「どんなファッションをしている人が好きですか?」とか「どんな髪形をしている人に特に惹かれますか?」という質問できないものか。こういう聞き方に変えても、何ら問題ないように思います。わざわざああいう聞き方にする必要性が説明できないなら、変えればいいのにと思います。

「似合っていたらどんな髪形でもいいです」「着たい服を着てくれたらいいと思います」質問に対する回答がこういったものである場合は、ほっとします。でも、アイドルが「黒髪ロング!」とか「シンプル系」とか答えているのを目にすることもあります。そういう時は、少しがっかりします。考えすぎと言われてしまいそうですが、あと一歩でルッキズムにも踏み込んでしまいそうでヒヤヒヤします。体形に言及しだしたら、どうしようとか。そういう受け答えも、知らないだけでどこかにはあるのかもしれません。

アイドル自身にはどうか自分のファンを思いやって発言をしてほしいし、アイドルを取り巻くメディアには、ひとつひとつの表現が適切なのかもう少しだけ考えてほしい。そして、ファンももっとアイドルを思いやらないといけないと、私は思います。ファンこそ、アイドルにあらゆる価値観を強引に押し付ける勝手な存在になりやすい。アイドルをそんなもので追い込んではいけない。少しずつ、アイドルの在り方も変わっていけばよいなと心から思います。

それでは今日はこの辺で。ではでは。