mn'95blog

日記の・ようなものです

わたしのものではない

先週金曜日、帰ろうと自転車を押しながら会社を出ると会社の前の通りに猫がいた。小さくて細っこいキジトラ猫。可愛いなと眺めていたら猫の背後から車のヘッドライトが差して、あ、と声にならない声が出た。幸い通りがかったその車は、法定速度よりもずっと遅く走って見回りをしていたパトカーで、更に徐行して猫を丁寧に避けて去っていった。

心底ほっとした。と同時にショックだった。あ、と思った時「飛び出して猫を助けろ!」と自分の身体に頭は指示したけれど、身体は全く動かなかった。わたしは自転車のハンドルを握ったまま、立ち尽くしていただけだ。わたしの身体はわたしが死に少しでも近づくことをしなかった。本能的なもの?いや、きっと、わたしの心の奥底に結局は自分がいちばん可愛いと思っているわたしがいるんだろう。そう思うと自己嫌悪。自分も性根はそういうヤツなんだとがっかりする。死ぬのが怖いし、こういうと変なようにも的を得てるようにも思えるけれど、死ぬなんてまっぴらごめん、「死ぬほど」いやだと思ってる。だから自分が生きられるなら、猫一匹殺す。そんな風に思っているわけではないけれど、たぶん心の奥底のわたしはそう。表の方にいるわたしたちは、そんな自分に抗おうとする、そうしてひとりの「わたし」になるんだと思う。

話を戻す。その翌々日の日曜日、高速道路で蝶を轢いた。モンシロチョウ。べちっと虚しい音がしてフロントガラスではじけて死んだ。金曜日に死ななかったけれど自分が殺したかもしれない猫のことで少し落ち込んだものだから、蝶を轢いた時は呼吸が乱れた。ひどく怖くなって、はじけて死んだ蝶が居なかったことにしたくて、ウォッシャー液で洗い流そうとした。なかなか落ちなくて何度もウォッシャー液をかけた。そのあとトンネルに入っては出てを繰り返すうちに、気持ちは落ち着いた。けれど猫のときと同じように落ち込んだ。落ち込んで色んなことを考えた気がする。けれどそこで思った、蚊やハエを躊躇なく殺す上に、蝶と蚊で何が違うかなんて説明できないわたしが落ち込むのは変だ。こんな悲しみ、落ち込んでいる状況はなんて傲慢なんだろう。自分は悲しみや罪悪感という名目で蝶を消費しているのではないか。

誰かが死ぬと悲しい。けれど何年か経つとその悲しみが純粋なものなのか分からなくなる。思い出して頬を伝ったこの涙は、自分のためだけのものではないか不安になる。その人の死をいつの間にかなんとなく泣きたいときに消費してはいないか、堪らなく不安になる。そんなことないと思っているけれど、わたしには否定ができない。生きているわたしは刻一刻と変化するしそのなかで迷う。

 

映画のなかでたくさんの死を見た。けれど現実のわたしは蝶を轢いただけでこんなに動揺してしまう。この動揺すらパフォーマンスのような気がしてしまう。蝶の死をわたしは感動ポルノのように扱っていないか自分に疑義をいだく。結局どれほど映画にのめり込んだって、画面のなかの彼らの人生は彼らのものだし、彼らの悲しみは彼らのもので、わたしのものにはならない。そんなの当たり前だけれど、でも、映画を見ているとたまに彼らの人生がほんの少しだけわたしのものになった気がしてしまうことがある。でも蝶を殺して気付く、あのスクリーンのなかの死はやっぱりわたしの人生に起きたものではない。あれがわたしのものなら、少なくともわたしは蝶や猫や鳥の死に何も感じなくなっている。映画や本や漫画はわたしに自分にはない考え方を教えてくれるし、わたしの知らない知識を教えてくれる。それは結果としてわたしを豊かにするけれど、それらがそのままわたしのものになることはない。あれはお前のものでない。