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日記の・ようなものです

きりきり舞いの

「きりきり舞いの美少女」という表現、何度聞いてもはっとするほど素晴らしい。突き抜けた美をありふれた修飾で飾るのではなく、きりきり舞いという言葉をくっつけてしまうのはもう天才。この素晴らしい表現を天才という言葉でしか讃えられないことが悲しくなるくらい。

この素晴らしい表現は、わたしが大好きなザ・タイガースの同窓会期に出された「色つきの女でいてくれよ」の歌詞で、作詞は阿久悠。聞いていてはっとして誰の詞だと思って歌詞カードを見ると阿久悠、ということがもう何度あっただろう。阿久悠の歌詞ではっとしたものといえば、これまた大好きなジュリーこと沢田研二の「麗人」に「音楽が聴こえない抱擁ならば 華やかな幕切れにした方がいい」という一節があるけれど、これもまた。抱き合うふたりの関係が終わろうとしている空気か、その関係の虚しさか、解釈は色々あると思うが、とにかく良くはない状況表すに「音楽が聴こえない」を持ってくる。これをセンスとか才能というのだろう。

きりきり舞いの美少女といい、音楽が聴こえない抱擁といい、自分は何に感動しているのか考えてみると、いずれも「美少女」「抱擁」という言葉が、他の人が思い付かないような言葉で飾られていることに感動しているのだと気付く。その上、思い付きもしなかった自分なのに、聴いた瞬間その表現以外あり得ないと思えるくらいその言葉の組み合わせがしっくりくる。シンデレラのガラスの靴くらい運命的な組み合わせだと思ってしまう。

昔、もう10年以上前なんじゃないかと思うけれど、テレビを見ていたら俵万智がすごいと思った詞について話していて、そのなかでサザンの「勝手にシンドバット」の「胸さわぎの腰つき」という歌詞がすごい!と言っていたのを思い出す。胸さわぎと腰つきという、くっつきそうもない2つの言葉をくっつけているのがすごいのだと、俵万智が言っていて、当時小学生だか中学生だかのわたしはなるほどなあと思ったのだった。「勝手にシンドバット」という曲名自体が、ジュリーとピンクレディーのくっつけ技だということは当時知らなかったけれど。

単にくっついているのを見たことがない言葉同士をくっつければいいという訳ではなく、他のどんな表現よりもぴったりで、素敵でなければならないというのが難しい。

最近、『ロッタレイン』という漫画を読んでいたら、そのなかで「暴風と 海との恋を 見ましたか」という川柳が引用されていて、こんな表現があるのか!と冗談ではなくめまいがしそうになった。嵐の様子を、暴風と海の恋と表すだけでもとんでもないのに、見ましたかという問いかけがやけに心に響く。調べてみたら、鶴彬という石川県出身で反戦川柳でよく知られる作家の作品だった。気になって作品集を買ったので、読むのが楽しみ。これはくっつかない言葉と言葉をくっつけて……という訳ではないけれど、嵐の様子を恋と表す独自性、それは前の阿久悠の歌詞とも通じる気がする。

素敵な表現にはっとしてときめいて、それだけでもまあ幸せだけど、死ぬまでに1個でいいからこういう素敵な表現を自分のなかから生み出してみたいよなあ、と考えつつ、今書いたこの文章を読み返してそんなセンスは無さそうだなとちょっと悲しくなったので、こんな時間だけどおやつでも食べて元気出そうと思います。