mn'95blog

日記の・ようなものです

3種のチーズ牛丼 ミニ

「晩ごはん、何食べよ〜」と、死ぬまでにあと何万回くらい考えるんだろう、いや、何万で済むのかな。とか考えつつ自転車を漕いで家を目指す。さてはて、冷蔵庫には茄子やら玉ねぎやらがあるけれど、今からごはんを炊くとなると空腹で待てないし、外食しちゃおうかな。そう思うと無性にすき家のチーズ牛丼が食べたくなってすき家に行くことにした。リーズナブル。マンションに着くと自転車置き場で自転車から降り、そのままクリーム色の愛車に乗り込んだ。車のキー、たまたま鞄に入れっぱなしで良かった。スピッツの「スーベニア」が流れる車内、最近のお気に入りは「自転車」。「望まないことばかり 起こるこの頃 ペダル重たいけれどピークを目指す」歌詞がぜんぶ好きだ。

そうこうしているうちにすき家の看板が見えた。夜のすき家はドライブスルーがすごく混んでいる。みんなチーズ牛丼食べたいのかなあなんて自分中心な思考をめぐらした。チーズ牛丼、サイズはミニ、おしんこセット。辛いの苦手なわたしでもこの時ばかりはタバスコかけてチーズと味わう。あーおいしいな、今日働いたから美味しいのかもな、働くのも悪いことばかりじゃないな、お金だっていただけるわけだし。わたしがそうやって、もぐもぐ食べているうちに、スーツのサラリーマンや大学生が店から出たり、入ってきたりした。丼ぶりのなかのご飯が半分になった頃、部活帰りか、塾帰りか、高校生二人組が入ってきた。16、7。もう高校時代が10年も前になろうとしている。会話に花を咲かせる彼女たちをちらと見ながら思う。彼女らから見たら、わたしは疲れた「ああはなりたくない」という感じのサラリーマンなんだろうか。少なくとも、憧れのキャリアウーマンって感じでもないもんなあ。けれども、疲れて牛丼を食べているわたしも案外幸せなのだよ、と彼女らに教えてあげたい。大人になったわたしは、食べたい時にチーズ牛丼よりももっと高い美味しいものを食べられるお金もあるし、行きたい場所に行ける車もあるし、親に頼らず自立しているし……あれ、と思った。もしかして、今の方が自己実現する力って16、7の頃よりあるんじゃない?彼女らのほうが可能性も未来もあるような気がしていたけれど、わたしも結構何だってできるし、何なら彼女らにできないことが結構できるぞ、と気付いた。割と当たり前のことなのに、今更。なんかもう25だしなとか思っちゃっていたけれど、いつの間にか毎日の繰り返しに渦に飲まれるように沈んでいっていたけれど、まだ何かできるような気がして、もうちょっと頑張ってみようかなという気持ちになった。今こうやって日記を書いているのもそんな気持ちに動かされてのことかもしれない。

なぜ日記を書いてブログという形で公開するのかということについては、わたしもなんでそうしているのかよく分からないけれど、まずは文章を書きたいというのがいちばんの理由なのだと思う。うまい下手はさておき、書くのが割と好きなのだ。単に書きたいのなら本当の日記帳に書けばよいのだけれど、わざわざ公開しているのは、誰かにちょっとここに書くような気持ちを知ってほしいという欲求があるからかなと思う。わたしが日常のなかで感じる、小さな喜びや、かなしみや、痛みや、そんな小さな感情を誰かに知ってほしいという気持ち。

売野機子先生の描く漫画がとても好きなのだけれど、この気持ちは売野先生の漫画を読むときの気持ちに似ているかもしれないなと思う。売野先生の漫画は、誰かの胸の奥の方にある、でもその人が誰にも言わず大切にしたり、誰にも言えず少し泣いたりした、そんな奥の方の気持ちに光を当てて大丈夫だよ抱きしめてくれるような漫画だ。こんな説明では、読んでいない人に伝わらない気がするけれど、そんな漫画だとわたしは思っている。例えば、最近刊行された「売野機子短編劇場」に収録の短編「航海」にも、そんな小さな感情が静かに描かれている。暮らしのなかにあるささやかな幸せ、主人公クァーシンのやさしさ、彼女を包む人の更なるやさしさ、そしてそこにナイフで傷をつける人の冷たさ。突きつけられたナイフの冷たさを、クァーシンは誰かに言うこともないだろう。冷たいその感触を胸の奥に抱えて、時たま思い出して気持ちを凍らせることもあると思う。そうやって彼女は生きていき、いつかその冷たさを忘れられはしないかもしれないけれど、どうでもいいと思えるようになると信じたい。誰もが、書き留めるほどではない小さな感情を毎日その胸に積み重ねて生きていると思う。誰も顧みないそんな小さな感情に、そっと光を当てて照らしてくれるから、わたしたちは売野機子という人の漫画を読んで自分をちょっと認めてもらえたような気がして、安心しちゃうのかもしれない。

わたしは日記を書くとき、そんな小さな感情ばかりを拾って文字にしているように思う。その日の風の気持ちよさとか、その日のごはんの味とそこで感じた幸せとか、虫を殺した怖さとか。書かないと忘れてしまうような、けれど大切にしたい気持ちを書いている。書かないとこんな気持ち誰にも見せることはないし、知ってもらうこともない。だからこそ書いて、誰かに読んでもらって、わたしはほっとしたいのかもしれない。わたしのそんな小さな感情を見てくれる人がいることにほっとして、今夜も眠りたいのだと思う。