mn'95blog

日記の・ようなものです

春蟬が鳴いてる

日によっては夕方、日によっては夜になってから会社を出て家路につく。自転車を走らせると、最近はだいぶ暖かくなってきたこともあって風が気持ちいい。たまに寒いこともあるにはあるけれど。

自転車を漕ぎながら、もう春蟬が鳴いているのだなとふと気付いた。5月頃になると草むらから聞こえてくる「ジーッ」という鳴き声。春蟬だ。正直姿は見たことがない。春蟬という呼び名が正しいのかも知らない。母が「ハルセミが鳴いてるね」と言ったから、あれは春蟬なのだ。

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の第一部を読み終わろうとしているところなのだけれど、その「ねじまき鳥」みたいだなと思う。やってきてはギギギと鳴いて世界のネジを巻いていく鳥。姿は見えず、鳴き声だけ。

春蟬はとても世界のネジを巻きそうにはないけれど、あれが鳴くと「あ、夏が来るんだな」と思う。「春だなあ」よりも「夏が来るんだな」。風の冷たさがやわらいで、あたたかくなってきた頃に鳴くからそう思うんだろうな。

春蟬ってどんな姿なんだろうと思ったことも何度かあるけれど、昨年の春くらいから「ここまできたら一生姿を見たくないな」と思うようになった。考えてみればわたしは虫が、虫という虫が苦手なので、姿なんて見たら、鳴いているのを聞いて雅に季節の移り変わりを感じることなんてできなくなる、絶対できなくなる。夏のセミみたいに鳴き声は奴らの姿を思い起こさせ、わたしに恐怖を与えるきっかけにしかならない、そういうものになってしまうはずだ。わたしが春蟬の声をいつくしむことができるのは、声しか知らないからだ。

人間もそうなのかな、と少し考えてしまう。容姿が素敵で好きだと思っても、中身が好きでないかもしれない。そんな風にある一面しか知らなくて、そこが素敵でも、他に嫌だと思う部分があるかもしれない。逆に、嫌だと思っていた部分はその人のある限られた一面でしかなくて、他にもっと素敵な部分があるかもしれない。

人を知れば知るほど、良い面も悪い面も知ってしまうから、知らないでいることと、知ることとどちらがいいか白黒はっきり……なんていう訳にもいかない。

わたしが好きだと思う人たちについて、わたしは色んな面を見た上で好きだと思えているのかな。それとも春蟬みたいに一面だけ見て好きだと思っているのかな。それって本当に好きということになるかな。なんだかそんなことを考えてしまう。でも他人を全部知るなんて到底無理だし、結局限られた面だけで人を好きになったり嫌いになったりするしかできないんだろうな。

 

とかとりとめなく考えてしまう4月の終わりでした。