mn'95blog

日記の・ようなものです

3種のチーズ牛丼 ミニ

「晩ごはん、何食べよ〜」と、死ぬまでにあと何万回くらい考えるんだろう、いや、何万で済むのかな。とか考えつつ自転車を漕いで家を目指す。さてはて、冷蔵庫には茄子やら玉ねぎやらがあるけれど、今からごはんを炊くとなると空腹で待てないし、外食しちゃおうかな。そう思うと無性にすき家のチーズ牛丼が食べたくなってすき家に行くことにした。リーズナブル。マンションに着くと自転車置き場で自転車から降り、そのままクリーム色の愛車に乗り込んだ。車のキー、たまたま鞄に入れっぱなしで良かった。スピッツの「スーベニア」が流れる車内、最近のお気に入りは「自転車」。「望まないことばかり 起こるこの頃 ペダル重たいけれどピークを目指す」歌詞がぜんぶ好きだ。

そうこうしているうちにすき家の看板が見えた。夜のすき家はドライブスルーがすごく混んでいる。みんなチーズ牛丼食べたいのかなあなんて自分中心な思考をめぐらした。チーズ牛丼、サイズはミニ、おしんこセット。辛いの苦手なわたしでもこの時ばかりはタバスコかけてチーズと味わう。あーおいしいな、今日働いたから美味しいのかもな、働くのも悪いことばかりじゃないな、お金だっていただけるわけだし。わたしがそうやって、もぐもぐ食べているうちに、スーツのサラリーマンや大学生が店から出たり、入ってきたりした。丼ぶりのなかのご飯が半分になった頃、部活帰りか、塾帰りか、高校生二人組が入ってきた。16、7。もう高校時代が10年も前になろうとしている。会話に花を咲かせる彼女たちをちらと見ながら思う。彼女らから見たら、わたしは疲れた「ああはなりたくない」という感じのサラリーマンなんだろうか。少なくとも、憧れのキャリアウーマンって感じでもないもんなあ。けれども、疲れて牛丼を食べているわたしも案外幸せなのだよ、と彼女らに教えてあげたい。大人になったわたしは、食べたい時にチーズ牛丼よりももっと高い美味しいものを食べられるお金もあるし、行きたい場所に行ける車もあるし、親に頼らず自立しているし……あれ、と思った。もしかして、今の方が自己実現する力って16、7の頃よりあるんじゃない?彼女らのほうが可能性も未来もあるような気がしていたけれど、わたしも結構何だってできるし、何なら彼女らにできないことが結構できるぞ、と気付いた。割と当たり前のことなのに、今更。なんかもう25だしなとか思っちゃっていたけれど、いつの間にか毎日の繰り返しに渦に飲まれるように沈んでいっていたけれど、まだ何かできるような気がして、もうちょっと頑張ってみようかなという気持ちになった。今こうやって日記を書いているのもそんな気持ちに動かされてのことかもしれない。

なぜ日記を書いてブログという形で公開するのかということについては、わたしもなんでそうしているのかよく分からないけれど、まずは文章を書きたいというのがいちばんの理由なのだと思う。うまい下手はさておき、書くのが割と好きなのだ。単に書きたいのなら本当の日記帳に書けばよいのだけれど、わざわざ公開しているのは、誰かにちょっとここに書くような気持ちを知ってほしいという欲求があるからかなと思う。わたしが日常のなかで感じる、小さな喜びや、かなしみや、痛みや、そんな小さな感情を誰かに知ってほしいという気持ち。

売野機子先生の描く漫画がとても好きなのだけれど、この気持ちは売野先生の漫画を読むときの気持ちに似ているかもしれないなと思う。売野先生の漫画は、誰かの胸の奥の方にある、でもその人が誰にも言わず大切にしたり、誰にも言えず少し泣いたりした、そんな奥の方の気持ちに光を当てて大丈夫だよ抱きしめてくれるような漫画だ。こんな説明では、読んでいない人に伝わらない気がするけれど、そんな漫画だとわたしは思っている。例えば、最近刊行された「売野機子短編劇場」に収録の短編「航海」にも、そんな小さな感情が静かに描かれている。暮らしのなかにあるささやかな幸せ、主人公クァーシンのやさしさ、彼女を包む人の更なるやさしさ、そしてそこにナイフで傷をつける人の冷たさ。突きつけられたナイフの冷たさを、クァーシンは誰かに言うこともないだろう。冷たいその感触を胸の奥に抱えて、時たま思い出して気持ちを凍らせることもあると思う。そうやって彼女は生きていき、いつかその冷たさを忘れられはしないかもしれないけれど、どうでもいいと思えるようになると信じたい。誰もが、書き留めるほどではない小さな感情を毎日その胸に積み重ねて生きていると思う。誰も顧みないそんな小さな感情に、そっと光を当てて照らしてくれるから、わたしたちは売野機子という人の漫画を読んで自分をちょっと認めてもらえたような気がして、安心しちゃうのかもしれない。

わたしは日記を書くとき、そんな小さな感情ばかりを拾って文字にしているように思う。その日の風の気持ちよさとか、その日のごはんの味とそこで感じた幸せとか、虫を殺した怖さとか。書かないと忘れてしまうような、けれど大切にしたい気持ちを書いている。書かないとこんな気持ち誰にも見せることはないし、知ってもらうこともない。だからこそ書いて、誰かに読んでもらって、わたしはほっとしたいのかもしれない。わたしのそんな小さな感情を見てくれる人がいることにほっとして、今夜も眠りたいのだと思う。

キネマにときめいて

8月も終わりだというのに、今日も溶けそうなくらい暑かった。映画館から出ると西日にじりじりと身体が焼かれ、映画館まで自転車で来たのを少し後悔した。家から街中の映画館までは自転車で約20分。車で向かう距離でもないと自転車で来たけれど、この時期はまだ少し辛かった。暑さに耐え切れず近所の喫茶店に駆け込んでアイスカフェオレを頼んだが、案外来るのに時間がかかる。待ち切れず、お冷をぐびぐび飲むと水の冷たさが身体中に広がっていくのを感じた。気持ちがいい。折角だし、このまま読書してから帰ろう、そう思って読みかけの『キネマの神様』を読み始めた。読んでいるうちにアイスカフェオレが届き、なくなり、ハーブティーを頼み、満杯だったポットが空になり、残りはティーカップに一杯だけとなった頃、本を読み終えた。じいんとして、しばらく動けなかった。なんだかちょっと泣きそうだった。

『キネマの神様』は、突然仕事を辞めた娘・歩と、ギャンブルと映画が趣味の父親・ゴウの親子が中心の物語だ。父が老舗の雑誌『映友』に歩の文章を投稿したのをきっかけに、彼女はその編集部に勤めることになり、更にはゴウも『映友』のサイトで映画ブログをスタートさせることに……という話。映画と、そして映画館への愛に溢れた、とてもあたたかな一冊だ。

読んでいて色んなことを考えたけれど、特に考えたのは「いつから真っ直ぐに映画が好きと言えなくなったんだろう」ということだった。

ゴウの書く映画評は、映画の良いところばかりを取り上げる。その映画の素敵だと思ったところを、真っ直ぐに、熱のこもった文章で書き上げる。変わった視点がある訳でもなく、何か鋭い指摘がある訳でもない。でも、読むとなんだかその映画が見たくなるような、気取ったところがない、あったかい文章だ。素直に映画を好きでいるとは、こういうことかと思わされる。

いつからだろう、わたしが映画を好きだという気持ちを素直に出せなくなったのは。

古典と言われるような名作を見ていないと映画が好きだと言ってはいけない気がした。年間鑑賞数が200本にも満たないわたしは映画を好きだと言ってはいけない気がした。何かを好きと言うためには、それに詳しくないといけないように感じて、いつしか「好き」に前置きが増えていった。「そんなに言うほど見てないんですけどね……」「そんなに詳しくないので……」そんな風に。映画の感想も、面白くないといけない気がして言うのがなんか気が引けた。呟きはするけど、自分の感想はつまらないしなあと思うようになった。

わたしは映画が好き、それだけなのに、その気持ちを人と比べ、萎縮し遠慮し、胸を張っては「好きだ!」と言えない。そんなのって変だけれど、いつしかそうなっていた。でも、『キネマの神様』を読み終わった時、なにも気にせず素直に「わたし、映画が好きだ!」と思えた。誰かと比べたり、誰かの言葉に惑わされることなく、真っ直ぐに自分の愛し方で映画を愛するゴウの姿が、わたしにそう思わせてくれたのだと思う。映画を観るようになった頃、映画にときめいたあの時の気持ち、あのままで良いじゃないかと。

わたしが映画を平均より多く観るようになったのは大学進学が決まった、高校の卒業前からだ。高校生の頃、大好きだった西島秀俊について調べまくっているうちに、彼が大の映画ファンだということを知った。映画が好きで、売れて多忙になる前は映画館によく行っていたこと。愛読書はブレッソンの『シネマトグラフ覚書』。大好きな香川京子さんと共演した時の喜び。雑誌のインタビュー記事や、過去に出演したラジオ番組での語りからは彼が映画好きであることが滲み出ていた。ミニシアターの存在も、名画座の存在も、ブレッソンも何も知らなかった高校生のわたしは、西島秀俊を通してミニシアターというものがあること、過去の名作を二本立て等で流す名画座なるものがあること、色んな監督や俳優の名前、映画のタイトルを知った。それに加えて、西島秀俊が取り上げられる雑誌で紹介されている別の作品についての記事も隅々まで読んでいたから、邦画については作品の規模の大小に関わらず、色んな作品の情報をキャッチしていた。知識が増えるとともに、勿論自分が知った映画を観たくなった。けれども当時のわたしは受験を控えた高校2年生だった。今でこそ、勉強と趣味としての映画を両立させられたんじゃないかと思うけれど、当時のわたしにはそんな自信はなく、「大学に入ったらたくさん映画を観よう!」と思っていた。

そして有言実行、受験が終わるや否や、近所のレンタル屋さんでずっと観たかった作品を借りてきた。今でも覚えてる。『ショーシャンクの空に』と『横道世之介』だ。どちらも人生は美しいと思わせてくれる作品で、わたしは家のテレビの前で胸を震わせてぽろぽろ泣いた。そして思った。映画ってなんて素晴らしいんだろう。知らない世界へ連れて行ってくれて、わたしに色んなことを教えてくれる。生きていこうと、こんなわたしだけれど明日から頑張ってみようかなと思わせてくれる。わたし、もっと映画が観たい。映画が、好きかもしれない。きっと、好きになる。

あの時の気持ちは、とても単純だ。でも真っ直ぐで自分の言葉で紡いだ美しい感情だったと思う。『キネマの神様』が、そんな気持ちを思い出させてくれた。それでいいんだよと言ってくれた気がする。観ていない名作がある。本数だって多くない。変わった感想は言えない。けれど、映画が好きなことに変わりはない。飾らない自分の言葉で、素直にそんな気持ちをまた語りたくなった。なんだか、今日はとてもいい日だった気がする。

スピッツの特別じゃなくても君がいいしむしろ俺にとっては君が特別理論

楽しみにしていたアルバム『見っけ』のツアーがコロナのために延期となってしまい、恒例の夏のライブイベントもない今年。年がら年中スピッツを聞いているわたしだけれど、そんなこともあってかスピッツを1ヶ月くらい聞いていなかった。が、最近久々に『醒めない』を聞いてやっぱりいいなあと思ってからはまたスピッツばかり聞いている。なんとなくまだ聞いていなかったリモート収録シングル『猫ちぐら』を聞いたり、あんまり聞いてなかった『優しいあの子』(優しいあの子/悪役)を聞き返したり。(悪役はファンクラブツアーで聞いた時、仮タイトルだと思っていたのでまさかこのままリリースされるとは思ってなかった)。勿論他の曲も。

ここ1週間くらい、スピッツを聞き返しながら、高校生の頃にスピッツを好きになってから今までのスピッツにまつわる思い出を頭の中で再生していた。15歳の時常夜灯のオレンジの光の下布団の中で初めて『楓』を聞いた時なんか涙が止まらなかったこと、高校のお昼休みの放送で誰かがリクエストした『君が思い出になる前に』がかかって嬉しかったこと、苦しかったときに寄り添ってくれた『トンビ飛べなかった』、それぞれの曲にはじめて出会った瞬間や、もっと好きになった瞬間、色んなことを思い出すことができる。気がつけば、わたしがスピッツを好きになって今年で10年が経った。そりゃ思い出も増える訳だと思う。

10年も聞いていれば、何かしらわたしのものの考え方にも影響を与えているんじゃないかと思って考えてみると、いくつか思い当たる節があった。そのひとつが、わたしが「スピッツの特別じゃなくても君がいいしむしろ俺にとっては君が特別理論」とわたしが呼んでいるものだと思う。「南の出らがし現象(タッチの南ちゃんが、タッちゃんのことを自分で馬鹿にするのはいいが人に言われるとムカつくのと同じように、自分で言う分にはいいが人に言われるとイラっとくる現象)」然り、わたしは勝手に色々名前をつけて自分のなかで慣用句化というか、使いやすいようにしている。

話を戻すと、「スピッツの特別じゃなくても君がいいしむしろ俺にとっては君が特別理論」はもう書いての通りという感じだけれど、一応説明すると、「世間一般にいう特別なものを君が持っていなくても俺は君が好きだし君がいいし、特別なものがなくても、俺にとっては君は特別なんだ唯一無二なんだ」というスピッツの曲に出てくる考え方を、長いけれどこう呼んでいる。世間的に良いされている価値がなくても、別のところでその人を好きだと思える、素敵な考え方だ。例をいくつか挙げると、「美人じゃない 魔法もない バカな君が好きさ(『夢追い虫』」「キセキは起こらない それでもいい そばにいてほしいだけ/お上品じゃなくても 真面目じゃなくても そばにいてほしいだけ(『ブチ』)」「この街で俺以外 君のかわいさを知らない 今のところ俺以外 君のかわいさを 知らないはず(『大宮サンセット』)」「美人じゃないけど 君に決めたのさ(『オーバードライブ』)」この辺りがそうだと思う。美人だとか、魔法があるとか、そんな世間的にすごいとされるような、特別と言えるようなものを持っていなくたって、俺にとっては君は最高で特別なんだ!という歌詞たち。これが昔からとても好きだ。

思春期真っ只中のわたしというと、可愛いだとか、そんな風に何か分かりやすく優れたものなないと誰かの特別になんてなれないと思っていた。その頃、有難いことにわたしの見た目をかわいいと言ってくれる人もいて、そこから好きだと言ってくれる人もいた。それは嬉しくもあったけれど、反対にふとした瞬間ひどくわたしを不安にさせた。歳を経て、周りの人が評価してくれたかわいいという価値がなくなってしまった時、わたしは無価値な人間になってしまうんじゃないか、そうしたら誰からもいらない人間になってしまうんじゃないかと。そんな時に『夢追い虫』を聞いて、もしかしたら見た目がどうであっても、見た目以外の部分でわたしを好きになってくれる人がこの先現れるのかもしれないと思えて、うれしくて、それからわたしはこの歌詞を心の引き出しのなかにお守りのようにそっとしまっておくようになった。それから他の曲のなかに似たような考え方を見つけては、気に入った記事をスクラップするみたいに、同じように大事にしまっておいた。歌詞はわたしのなかですくすく育ち、次第に「誰か見つけてくれるかも」という思いだけでなくて、「誰かが見つけてくれなくても、わたしがわたしの素敵なところを見つけて愛せばいいじゃないか!」とも思えるようにもなった。わたしは自己肯定感が高い人間だと思うけれど、その理由のひとつはこれかもしれない。

高校とか小さなコミュニティ内でいると、そのコミュニティのなかで良しとされる基準でしか自分を評価できず、結果自分の魅力に気付けなかったり、その評価以外に自分が何も持っていないように思えて不安になったりしてしまう人もいるんじゃないかと思う。けれど、美人だとか、そんなわかりやすい価値以外の素晴らしいことというのもこの世にはあって、それを自分で見つけられれば、或いは誰かに見つけてもらえば、毎日がぱっと明るくなる気がする。自分を肯定できると思う。わたしがいろんな価値を見つけて肯定できるようにしてくれたのは、他の要因もあるかもしれないけれど、間違いなくスピッツのおかげでもある……と思うとますます好きになるね、スピッツのこと。

例には挙げていない曲のなかにも、「スピッツの特別じゃなくても君がいいしむしろ俺にとっては君が特別理論」が当てはまる曲があると思うので、遊びでまた探してみたいなと思う。

爪を塗ってあげるよ

ちょっと前に、いや、もう結構前かもしれないけれどTwitterで「#私を構成する9枚」とか言って自分を今の自分たらしめた要素のひとつとして、アルバムを紹介するのが流行った。本とか漫画とか、映画バージョンもあったように思う。わたしにとってそんな、バイブルとも呼ぶべき作品は何かあるだろうかと考えると真っ先に浮かぶのが、小学生の頃手に取ったあさのあつこの『ガールズ・ブルー』『ガールズ・ブルーⅡ』。

平成7年生まれなわたし世代は、小学生の頃あさのあつこを読んでいる子が結構多かったように思う。その代表格が『バッテリー』シリーズで、わたしもそこからハマった。あとは『THE MANZAI』シリーズとか。父に買ってもらっては、その日のうちに読んでしまっていたのが懐かしい。そんな流れで『ガールズ・ブルー』にも出会った。

憧れがあったんだと思う。主人公の理穂はキラキラした高校生で、地味で真面目で大人しかったわたしとは真逆でおしゃれに自由に人生を謳歌しているカンジが眩しかったし、そんな生き方自分はできないと思っていたから尚更惹かれた。自分の周りにはいない、凛々しくてでも儚い美咲。幼なじみの名前は如月と睦月。恋人のような里穂の両親。犬。カラス。どれもちょっと切なくてまばゆかった。

なかでも特によく思い出すのは、『ガールズ・ブルーⅡ』で病室で横たわる美咲の爪に、理穂がピンク色のマニキュアを塗るシーン。片方の手は桜貝の色に、もう片方はサーモンピンクに。弱って消えそうな美咲に、理穂はこんなの美咲じゃないよ美咲はもっと強いんだとまるで祈りのように何かの儀式のように爪を塗る。ベットに横たわりチューブに繋がれた友だちに唯一できること、それが爪をピンク色にしてあげることだというのは、なんとも理穂らしい発想だし、どんな言葉より贈り物より素敵だと12歳のわたしは思った。今も、このシーンが大好きで、わたしはこのシーンのことを思って自分の爪を塗る。祈るように爪を塗る。美咲は、病気の時はすべてがモノクロに見えるけれどそのなかでもピンク色の爪だけは色褪せなかったと言う。わたしもちょっとその気持ちが分かる。後から自分の爪を眺めると、ちょっと汚いセルフネイルでも、それでもなんだかそこだけパートカラーの映画みたいに鮮やかに見える。気持ちがすっと上向きになる。仕事でどんなにヘトヘトでも、何にもする気が起こらないくらい鬱々とした休日でも、爪を見るとちょっとだけ気分が晴れる。爪に色があるだけで、明るくなれるなんて素敵じゃないか。そんなときめきを教えてくれたのは間違いなく『ガールズ・ブルー』だった。

ただ、そのときめきが自分のものとなったのはつい最近だ。わたしが爪を塗るようになったのは、本当にここ数年のことで、それこそ、服や化粧で気持ちを上げることができると知ったのもつい最近のこと。そう思うと、それまでのわたしは気分が沈んでそのまま溶けてなくなってしまいたくなった時、どうしてたんだろうと思う。どうもできずベッドの上で死んだように横たわっていたんだろうか。昔のわたしに会えるなら、だらりと下がったその手の先に色を塗ってあげたい。ピンクやオレンジやミントグリーンやとにかく綺麗な色でその爪を塗ってあげたい。元気が出るように、塗ってあげたい。

わたしのものではない

先週金曜日、帰ろうと自転車を押しながら会社を出ると会社の前の通りに猫がいた。小さくて細っこいキジトラ猫。可愛いなと眺めていたら猫の背後から車のヘッドライトが差して、あ、と声にならない声が出た。幸い通りがかったその車は、法定速度よりもずっと遅く走って見回りをしていたパトカーで、更に徐行して猫を丁寧に避けて去っていった。

心底ほっとした。と同時にショックだった。あ、と思った時「飛び出して猫を助けろ!」と自分の身体に頭は指示したけれど、身体は全く動かなかった。わたしは自転車のハンドルを握ったまま、立ち尽くしていただけだ。わたしの身体はわたしが死に少しでも近づくことをしなかった。本能的なもの?いや、きっと、わたしの心の奥底に結局は自分がいちばん可愛いと思っているわたしがいるんだろう。そう思うと自己嫌悪。自分も性根はそういうヤツなんだとがっかりする。死ぬのが怖いし、こういうと変なようにも的を得てるようにも思えるけれど、死ぬなんてまっぴらごめん、「死ぬほど」いやだと思ってる。だから自分が生きられるなら、猫一匹殺す。そんな風に思っているわけではないけれど、たぶん心の奥底のわたしはそう。表の方にいるわたしたちは、そんな自分に抗おうとする、そうしてひとりの「わたし」になるんだと思う。

話を戻す。その翌々日の日曜日、高速道路で蝶を轢いた。モンシロチョウ。べちっと虚しい音がしてフロントガラスではじけて死んだ。金曜日に死ななかったけれど自分が殺したかもしれない猫のことで少し落ち込んだものだから、蝶を轢いた時は呼吸が乱れた。ひどく怖くなって、はじけて死んだ蝶が居なかったことにしたくて、ウォッシャー液で洗い流そうとした。なかなか落ちなくて何度もウォッシャー液をかけた。そのあとトンネルに入っては出てを繰り返すうちに、気持ちは落ち着いた。けれど猫のときと同じように落ち込んだ。落ち込んで色んなことを考えた気がする。けれどそこで思った、蚊やハエを躊躇なく殺す上に、蝶と蚊で何が違うかなんて説明できないわたしが落ち込むのは変だ。こんな悲しみ、落ち込んでいる状況はなんて傲慢なんだろう。自分は悲しみや罪悪感という名目で蝶を消費しているのではないか。

誰かが死ぬと悲しい。けれど何年か経つとその悲しみが純粋なものなのか分からなくなる。思い出して頬を伝ったこの涙は、自分のためだけのものではないか不安になる。その人の死をいつの間にかなんとなく泣きたいときに消費してはいないか、堪らなく不安になる。そんなことないと思っているけれど、わたしには否定ができない。生きているわたしは刻一刻と変化するしそのなかで迷う。

 

映画のなかでたくさんの死を見た。けれど現実のわたしは蝶を轢いただけでこんなに動揺してしまう。この動揺すらパフォーマンスのような気がしてしまう。蝶の死をわたしは感動ポルノのように扱っていないか自分に疑義をいだく。結局どれほど映画にのめり込んだって、画面のなかの彼らの人生は彼らのものだし、彼らの悲しみは彼らのもので、わたしのものにはならない。そんなの当たり前だけれど、でも、映画を見ているとたまに彼らの人生がほんの少しだけわたしのものになった気がしてしまうことがある。でも蝶を殺して気付く、あのスクリーンのなかの死はやっぱりわたしの人生に起きたものではない。あれがわたしのものなら、少なくともわたしは蝶や猫や鳥の死に何も感じなくなっている。映画や本や漫画はわたしに自分にはない考え方を教えてくれるし、わたしの知らない知識を教えてくれる。それは結果としてわたしを豊かにするけれど、それらがそのままわたしのものになることはない。あれはお前のものでない。

 

いつでも走り出せるように

会社でもプライベートでも、いつでもぺたんこな靴ばかり履いている。営業職の女性といえばヒールのある靴を履く人が多いけれど、そんななかぺたんこ靴ばかりなのでちょっと目立つのか、ふと思い出したように「そういえばヒール履かないよね」と言われることがある。こういうとき、何でヒールを履かないのか理由を答えるとちょっと笑われたり、よく理解できないなという顔をされたりする。「いつでも走り出せるように」これがわたしがヒールを履かない理由だ。勿論足が楽だとか他にも理由はあるけれど、一番の理由はこれ。

なんだそれ、と思う人がいるのも何となく分かる。そんなに走り出そうとする時が君にはあるのかと思うのだろう。でも、わたしにとってはそれは大切なことなので、否定さえしないのであれば不思議に思ってくれていいよ。確かに日常のなかでそんなに走ることがあるかと言われると、ない。そりゃ小学生の頃はインドア趣味のわたしでさえ走り回っていたけれど、今や走ることなんてごく稀だ。冬の寒い日に家から出て車に乗り込むまでの間、渡っている途中で信号機がチカチカ点滅し始めたとき、不規則に飛ぶ蝶を避けるとき、そのくらい。

けれど、これは冗談を言うわけでも大袈裟に言いたいわけでもなくて、わたしは人生って何が起こるかわからないとほんとうに本当にそう思っているから、いつでも走り出せるようにしておきたい。映画の見過ぎだと思われるかもしれないけれど、突如宇宙のかなたの星から攻撃を受けて逃げないといけないかもしれないし、宇宙規模とまでいかなくても何らかの事件に巻き込まれて逃げなきゃいけないかもしれないし、あだち充の漫画みたいに交通事故に遭いそうな人を助けないといけないかもしれないし、そんな事件でなくてもたまたま散歩中に逃げ出した犬を捕まえなきゃいけないかもしれないし、考えると結構走り出しそうじゃん、わたし、とか思ってしまう。宇宙規模とか何SF?そんなのあり得ないじゃんと思うのは自由だけれど、それを完全に否定することなんかだれにもできないので、わたしがそれを理由にヒールを履かないでもよいのだ。なんだか逃げることばかり例にあげてしまったけれど、他にも道端で猫を見つけたら追いかけていけるようにしておきたいし、好きな人のところにちょっとでも早く行けるようにしておきたいし、そういうポジティヴな理由だってある。

考えすぎとか妄想癖とか言われそうだけれど、たらればを本気で考えまくって終い(しまい)には悩み始めるのがわたしだし、わたしはそんな自分が結構好きだったりする。人に否定されなければ理解してくれなくてもいいよと、そういうスタンスをとっているけれど、ほんとはちょっと理解して受け入れておくれよとか思っちゃって。クールになるなんて一生無理かもしんない。

イミテーション失恋

昨日からAmazonプライムビデオで「きのう何食べた?」のドラマ版を見始めた。1日1話。高校時代は西島秀俊に狂っていたので、ご本人の地のかっこよさが生きるあの役柄には流石に心がざわざわする。キャーとか、そんなんじゃなくて、もっと心の根っこを西島秀俊には侵食されているので、心の奥の方で何か蠢く感じ。

わたしは幸いにも人生で失恋をしたことがないけれど、たぶん死んでも良いくらい好きで好きでたまらない相手に失恋したらこんな感じになるんだと勝手に思っている。

街角で西島秀俊が起用された広告で見かけるとき、わたしの胸にあるのはときめきではなくてざわめきだ。心臓はドキドキなんかしてくれやしない。わたしに与えられるのは、気管の直径が半分までもはいかなくても3/4くらいにはなったんじゃないかと思わせるような息苦しさ。これがわたしが西島秀俊という一度も実物を目にしたことのない、カメラ越しの人間に抱いている感情だ。

この感情は本物なんだろうか。失恋に優劣なんてないとは思うけれど、実際の失恋の方が手触りがあって良い気がしてしまう。わたしのはそこにあるはずのざらつきのなく、それが球体なのか立方体なのかも分からないほど輪郭のない感じがする。そのうえそれは巨大な気がしてる。端っこはわたしにも見えない。得体が知れない、でも確かに胸が痛むという我ながらの気持ちの悪さ。大学で2年になる頃に彼の雑誌を買うことも、出演作を追うこともやめたけれど、未だこんな気持ちになるんだから怖い。

思春期に抱いた憧れって、大人になると呪いになるんですか。