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日記の・ようなものです

9月12日 最近買った本とか

昨日は夕食後にリビングの床で寝てしまい(どこででも快眠できるので床でも支障なし)、配偶者が何度か声をかけてくれたにも関わらず起きず、朝まで寝ていました。毎日日記を書くと決めた矢先にこれです。お風呂に入らずに寝ると気持ちが悪いので、ちゃんとしたい……。

さて、今日は沖田修一監督の最新作『子供はわかってあげない』を見てきました。すごく好きな一本であることは間違いないのですが、好きだという気持ちが溢れていてまとまらないので、これについては後日改めて書きたいなと思っています。とりあえず言えるのは、傑作なので映画もたくさんの人に見てほしいし、原作の漫画もまた傑作なので多くの人に読んでほしいということです。

上下巻ってコンパクトで好きです。

 

最近いくつか本を買ったので、今日はそれをまとめておこうと思います。昨日『批評の教室』を買いました。最近出た新刊です。北村紗衣先生は、映画の感想をブログによく書いているのですが、それを読むのが好きで、著作もいつか読んでみようと思っていたところ、新刊が出たので買ってみました。読むのが楽しみです。

あと、今日古本屋で2冊買いました。幸田文『台所のおと』と、山田宏一『シネ・ブラボー2』。

幸田文さんの著作が好きで、今年に入ってから『季節のかたみ』『きもの』と続けて読んでいて、次は『台所のおと』が読みたいなと思っていたので、良いタイミングで出会えたなと思います。店頭の100円コーナーにありました。幸田文さんのものごとの感じ方と、それを記す簡潔な文が好きです。文章の簡潔さと、その文章が表現するものの豊かさというのは、決して矛盾するものではないのだと、幸田文さんの著作を読んでいると思います。

ついでに店内も見てみたら、『シネ・ブラボー2』があったのでこちらも購入しました。最近『ハワード・ホークス映画読本』を読みましたが、読むと文章から溢れるホークス愛に突き動かされて、たまらなくホークスが見たくなりました(そして見ました)。文章だけで人に「面白そう!」「見てみたい!」と思わすのって、簡単そうで難しいと思っているのですが、山田宏一さんの文章を読んでいると、とにかく「面白そう!」「見てみたい!」とわくわくしてくる。見た後に読み返すと、「うんうん」と頷きながら読んでしまう。読んでいると映画について人と話している時のような、心躍る感じがします。なので、こちらも読むのが楽しみです。

最近、あまり本は買わずに図書館で借りるように心がけていたのですが、それでもちょこちょこ買ってしまい、本棚に積んでいる本が増えてきたので、暫くは本棚優先でいこうと思います。ではでは。

9日10日 シャン・チー

今日は映画館で『シャン・チー テン・リングスの伝説』と『ザ・スーサイド・スクワット “極”悪党集結』の2本を見ました。シャンチーは完全にトニー・レオン目当てです。スースクは、好きなアイドルが見たと言っていたのでついでに見ました。理由がミーハー。

シャンチー、とにかくトニー・レオンが格好良かったです。もう画面に映っているだけで満足してしまいます。スターだなあ。セットしていた前髪が下りたところなんて、心のなかでキャーと黄色い悲鳴をあげてしまいました。アクションが少々ぬるくても、トニー・レオンのことは許してしまいますね。よくあるパターンだと思いますが、わたしも『恋する惑星』でトニー・レオンに陥落したクチです。ほかの出演作だとホウ・シャオシェン監督の『悲城情市』が好きです。『悲城情市』では、トニー・レオンはその格好良さや色気を出しませんし、耳が聞こえないという役どころなので喋りもないですが、あの下がった眉と真摯なまなざしが素晴らしい。『悲城情市』は作品自体も二・二八事件を描いた名作で、隙あらば人に薦めたくなります。本当に好きというか、良いと思っている作品なので永遠に語れてしまいますね。

さて、話をシャンチーに戻します。全体的に香港映画の影響が色濃い作品だったなと思います。まあ、それならアクションはもう少し頑張ってほしいなと思ってしまいましたが……正直アクションはぬるいと感じました。あれだけアクションシーンがあるのに、俳優の身体性が感じられないというか。「後でVFXでいい感じにしよう」という感じがしました。スローのところもスローで見せるほどの見せ場になっておらず。もっと動ける俳優を使えばよかったのに、とどうしても思ってしまいます。つい数日前に『酔拳2』を見たのですが、やっぱりジャッキー・チェンって凄いですよね。ラストの闘いのシーンなんて、あれが1時間くらい続いても見られるなと思うくらい素晴らしいと思います。どうしても、ああいう身体性を持った俳優と比べてしまって、いまいちだなあと思ってしまう。バスター・キートンや、先日亡くなった(まだなんだか信じられないけれど)ジャン=ポール・ベルモンドなど、素晴らしい身体性を持った俳優を見てきた映画ファンで、あのアクションで満足する人はいないんじゃないかと思ってしまう。まあ、キートンと比べられたら、誰も勝てないとは思いますが。脱線しますが、最近読んだ蓮實重彦さんの『見るレッスン』で、蓮實さんも「誰もキートンは超えられない」的なことを言っていて、激しく同意しました。見るレッスン、ロメールを殺してやるリストに入れていた話が好きです。笑える。

 

そういえば、マカオのビルの足場で闘うシーンでは、「なんでマカオの高層ビルに建てられた足場が竹でできているんだ」と思わずつっこみたくなりました(笑)が、あれもまあ香港カンフー映画でよくあるシチュエーションだと思うので、やりたかったんだろうなあということで納得しました。

アジア人描写については、髪の色をVFXで後から変えたことなどが話題となっていますね。この点については、確かにステレオタイプを壊そうという姿勢もありましたが、ステレオタイプから脱し切れてはいないと感じました。人種的なステレオタイプについては、アメリカ映画はやっと過渡期に入ったのかなと個人的には思っているので、これからどうなるか見守りたいなという感じです。

あとは神獣がかわいくて、モーリスにすっかりハマってしまいました。切実にぬいぐるみがほしい。神獣については、次の記事が詳しくてすごくおもしろかったです。(北村紗衣先生のツイートで知りました)ぬいぐるみ、どこかに売ってないんですかね。

chutetsu.hateblo.jp

寝る前に帝江のぬいぐるみがないか、ネットで探し回ろうと思います。明日は映画を見る予定もなく、アイドルの現場に行く予定があるくらいなので(最近ドルオタになりました)、映画以外の話になりそうです。ではでは。

 

 

9月9日 全員切腹

その日のうちに書けばいいのに、日付が変わって書き始めてしまい反省。明日というか、もう今日ですが今日からは、その日のうちに書きたいです。

まずは、昨日書ききれなかった『全員切腹』について。昨日8日に映画館で見てきました。豊田利晃監督、窪塚洋介主演の26分と短めの1本です。豊田監督といえば、ご自身が祖父の形見である拳銃を持っていたところ、拳銃不法所持で逮捕されてしまったという経験から、2019年に『狼煙が呼ぶ』を作っていて、そこから2020年の『破壊の日』、今回の『全員切腹』と、監督個人の怒りや疑問を端緒とした短編の制作が続いています。残念ながら、前2作については見ることができませんでしたが、見たいなあとずっと思っていたので、今回『全員切腹』を劇場で見られたことは、それ自体が嬉しかったです。(全2作の公開時わたしはまだ四国に住んでいて、四国では公開がありませんでした。)

本作は、この国やそのリーダーたちへの怒りが込められていて、今日もまた緊急事態宣言の延長が決まりましたが、今の状況のなかではそういった見方をする人も多いと思います。わたしもそういうテーマと、それを物凄いスピードで同時代的に映画にしてしまう豊田監督に興味を持って本作を見に行きましたが、それだけではない作品だなと思いました。今はコロナという疫病に侵されていますが、時代とともに社会が抱える問題も変わっていくし、今だってコロナ以外にも問題は山積みです。コロナの流行とそれに対応するトップへの批判として見てもいいですが、本作は別の問題に置き換えて見ても十二分に成り立つ作品です。時代を経ても、いつだって「現代」として楽しめる作品だと思います。

そして、窪塚洋介さんはいつ見てもかっこいい。切腹シーンは見応えがありましたが、窪塚さんだからこそな気がします。あと、介錯をする渋川清彦さん。返り血が凄すぎて、思わず笑いそうになりましたが、マスクの下で口を大きく開けたところでなんとか堪えました。あれは凄かった。

本作は結構音楽が充実していて、特に太鼓の音は緊張感を高め、短い時間のなかで物語を盛り上げるのに一役どころか何役もかっていますが、個人的には音楽に頼りすぎな気がしてしまいました。この点については、特にほかの人の感想も知りたいです。緊張感も盛り上げも、映像で作ることにもっと拘ればいいんじゃないかと思ってしまいました。ただ、さっきいくつかインタビュー記事を読んでみたところ、豊田監督はかなり音を重視しているようで、もうわたしの好みの問題かなあとも。わたしは極端にいえば、映画には音楽がなくてもよいと思っているので……。この点はちょっと合いませんでした。

読んだインタビュー記事は、次のとおりです。窪塚さんはたまに酔っぱらってインスタライブをして話題になりますが、それについても話していて、そこも面白いです(笑)

あと、なんか触れるタイミングがなかったので最後に付け足しておくと、豊田監督だと『泣き虫しょったんの奇跡』がわたしは好きです。

日記ということで、他にも書こうかと思っていたこともあったのですが、また映画の話で終わってしまいました。普通に、100均行った話とか、そういうのもしようと思うのに、映画の話をすると長くなってしまう……。今日はこの辺にします、ではでは。

9月8日 田舎司祭の日記

空気も空もすっかり秋らしくなりました。季節の変わり目だからかわかりませんが、何かやってみようという意欲がわいてきたので、気まぐれに書いていた日記を、文字通りその日の記録として毎日書くことにしようと久々にブログを開きました。

意欲がわいてきたならそれをほかのことに使うことも可能ですが、日記を書くことにしたのは、今日ブレッソンの『田舎司祭の日記』を映画館で見てきたからかもしれません。本作は、4Kデジタルリマスター版の公開が6月に始まり、全国の劇場で順次公開されています。先日『ラルジャン』をBlu-rayで見て、すっかりブレッソンが好きになったのですが、タイミングよく『田舎司祭の日記』が上映されるということで劇場に足を運んだわけです。白状すると、それまでは『バルタザールどこへ行く』しか見ておらず、しかも見たときはあまりピンとこなくて、それからなんとなく敬遠していました。が、そうしているうちに、「仮にも映画が好きと言っているのにブレッソンを見てないなんて!」と勝手にブレッソン・コンプレックスに陥り始めたので、これはいけないと『ラルジャン』のBlu-rayを買って、今に至ります。(ほかにも色んなコンプレックスに陥っていますし、もっと見ないととは常に思います。)

コンプレックスについて書く始めると長いし鬱々としてしまいそうなので、話を『田舎司祭の日記』に戻しますが、まず劇場で見てよかったと思いました。クレジットが流れる後ろにある一冊のノート。これがおそらく司祭の日記なのだろうと眺めていると、画面の端からすっと手が伸びてきてページを捲る。この手が美しくて、それだけで見に来てよかったなと思いました。『ラルジャン』も手が雄弁で美しかったですし、ブレッソンは手を撮ることに長けている人なのだとブレッソンビギナーの私でも思います。

話としては、田舎の教区にあたらしく若い司祭がやってきて、そこで善行に励むのですが、村人との間には溝があり、むしろ彼は村人に拒絶されてしまう。しかも彼は病気で、心と一緒に身体も弱っていく、そんな話です。キリストの受難になぞらえた話なのだろうと理解しています。病気で弱った司祭がめまいに倒れた時、少女が汚れた司祭の顔を布で拭ってやりますが(その後司祭は少女から布を受け取り自分で顔を拭く)、このシーンも聖ヴェロニカの聖顔布を思わせるし、司祭が終盤で出会う神学校時代の友人の恋人はマグダラのマリアを思わせます。キリストの受難を追っているという点は、今たまたま読んでいる『映画とキリスト』(岡田温司みすず書房)を確認してみると、同様の指摘がありました。(全く気付いていなかったけれど、この本の表紙が『田舎司祭の日記』でした。なんたる偶然。映画を見ているとこういうミラクルってよく起きるなと思います。その日適当に見た映画全部で主人公が刺されて死ぬだとか、そんな風にあらゆることが繋がってしまう。)

ショットも美しかったです。特にお気に入りなのは、終盤の司祭がバイクで駅に送ってもらうシーンです。あのシーンだけブレッソンらしい無表情は崩れ、司祭がそれまでの苦悩を忘れたかのように微笑むので、心を奪われました。前にもこんなことがあったなと考えていたら、カウリスマキの『罪と罰 白夜のラスコーリニコフ』に思い当たりました。あれにもふっと主人公が笑うシーンがあって、それがすごく印象的でした。

とにかく、『田舎司祭の日記』は見てよかったなと思います。もう少しすれば『やさしい女』もリマスター版が公開されるので、そちらもすごく楽しみです。

 

今日はそれに加えてもう1本、『全員切腹』を見ましたが、長くなったのでこちらの話は明日に持ち越したいと思います。こんな感じでとりあえず毎日何かしら書き続けていこうと考えています。ではでは。

 

最近のこと

久しぶりに日記を書く。日記、といっても元々その日の記録というよりかは、その日までのしばらくの期間に起きたことや、それから考えたことを書いているので、日々の浮かび上がっては消えていく細やかな感情は記されることなく失われてしまっていると思う。

 

春に故郷・四国を離れて関東に移り住み、結婚してあたらしい生活が始まった。馴染みのない土地での暮らしにもいつの間にか慣れていくもので、6月あたりからは特に不自由もなくなった。心身ともに余裕ができ、こちらに来た当初よりも映画や読書を楽しむことができている。そして、思い出したようにブログを開いてみている、というのが今の状況だ。

 

6月といえば、コロナ禍で厳しい状況に置かれているーーコロナ以前から決して余裕あるものではなかったのだとは思うがーーミニシアターの支援を目的とした「ミニシアター・エイド基金」の行ったクラウドファンディングのリターンである「サンクスシアター」の視聴期限が6月末で、わたしも例に漏れず大慌てで月末に何本か観た。なかでも観られて良かったと強く思うのが、瀬田なつき監督の短編や初期の作品群。今回の「サンクスシアター」で瀬田なつき監督作にはっとさせられた人はかなり多かったのではないかと思う。

 

同監督の作品としては、私自身はこれまでに『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』『PARKS パークス』『ジオラマボーイ・パノラマガール』の3作品を観たことがあり、なかでも『PARKS』はお気に入り。瀬田監督を追いかけていこうと思った一本だった。今回は、かねてから観たいと思っていた『彼方からの手紙』『あとのまつり』『5windows』『5windows mountain mouth』『5windows eb(is)』を観る機会に恵まれ、観る前から嬉しかったし、どの作品も素晴らしかった。特に素晴らしいと思ったのは「5windows」シリーズ。『PARKS』で土地や場所、そこに流れる時間を捉えることを瀬田監督は得意としているらしいと気付かされたが、それが際立っていたのがこのシリーズ。「5windows」シリーズを観ていると、瀬田監督が描きたいのは人じゃなくて、「まちの記憶」ともいうべきものなのではないかと思わされる。誰かの物語を描くことに執着しているとは思えない。そこにはまず「まち」がある。人はまちの上に存在する一時的な存在でしかない。ある時にたまたまそのまちにいた。そんなことは誰の記憶にも残らない、もしかしたらそこにいた本人すらも忘れてしまうようなーーそんな短い時間を奇跡的に画面に収めたのが「5windows」だと思う。誰も知らない、まちの上に流れる雄大な時間のほんの一瞬。まちという途方もなく長い時間を内包した大きな存在から溢れて出る音楽を一音一音丁寧に収めたような、そんな作品。人はきっとその音楽のほんの一部にしか過ぎない。映画でよく描かれるような誰かのドラマチックな人生とは違って、素通りされ、指の隙間から落ちて消えてしまう記憶や時間や言葉が「5windows」にはあり、このこと自体が奇跡的だと思えるし、その上、画面に収められたしなやかな運動に助けられながら、それが観客を魅了するのだから素晴らしいと思う。一つ残念なことがあるとすれば、今回配信された初期作品や短編を観る機会が中々ないことで、今後配信や特集上映等でその機会が益々増えれば良いなと思う。勿論、自分勝手な一ファンとしてはディスク化が一番だと思う(資金的な問題はファンがクラウドファンディングで支えてくれるのではと思うけれど、どうだろう)。

 

同じく6月、自宅でDVD鑑賞ではあるけれど、久しぶりに伊丹十三の監督作を観た。『ゴムデッポウ』を除けば、監督作で唯一観ていなかった『静かな生活』。障がいを持つ兄とその妹を中心に、とある一家の暮らしを描いた一本。原作は大江健三郎佐伯日菜子さん演ずる妹・マーちゃんの実直な視点が見るに爽やかで、割と好きな一本だった。この爽やかさは伊丹十三の監督としての手腕だけではなく、きっと大江健三郎の原作によるところも大きいのだろうと思って、原作も読んでみることにした。やはりマーちゃんの実直さは原作から来るもので、文庫版の末尾に収録されていた伊丹十三の言葉からも、伊丹十三がこの実直さを大切に守りながら映画化をしていったことが分かった。大江健三郎を読むのははじめてで、何なら大江健三郎伊丹十三の関係も今回初めて知った。伊丹十三の作品が結構好きかもと思いながらも、全然その人物については知らなかったのだなあと思う。『静かな生活』が面白かったのと、大江健三郎が向き合ってきたであろう「魂のこと」について知りたいと思い、そして大江健三郎作品を通して伊丹十三のことももっと知ることができるのではないかとも思い、『静かな生活』を図書館へ返却すると同時に、『取り替え子』を借りた。『取り替え子』を選んだのは本当になんとなくで内容も知らずに手に取ったので、今日読み始めて驚いた。主人公の作家と、自身で飛び降りて死んだと思われる映画監督。学生のふたりが出会った松山。大江健三郎伊丹十三が重なり、この作品が伊丹十三の死後、大江健三郎がその問題と向き合うために書かれたものだと分かった。なんだか苦しくて数ページ毎に本を閉じてしまいそうになるけれど、大江健三郎伊丹十三の死にどう向かったのか知るために、最後まで読みたいと思う。

 

他にも観た映画(『いとみち』や『1秒先の彼女』、最近努めて見ている古典)について、何か書こうと思っていたけれど、このままだととんでもなく長くなりそうなので、今日は一旦ここで終わりにする。また続きは近々書ければ。

 

いくつかの場面

結婚すると周りにも伝えていよいよ実感が湧いてきたからか分からないけれど、最近よく恋人と過ごした学生時代の記憶がよみがえる。

学生時代のわたしと言えば遅刻は日常茶飯事のろくでもない奴だったけれど、それに呆れも怒りもしなかったのが恋人だった。よく思い出す場面がある。その日わたしは寝坊して、ドタバタ準備して家を出て、JR六甲道から電車に乗り三ノ宮へ向かった。改札を出て見回すと、恋人は柱を背に読書をしていて、わたしを見つけるとぱたりと本を閉じた。30分の大遅刻。流石に気分を悪くしたに違いないと思いながらごめんねと声をかけると、彼は「いいよ、ちょうど本も読みたかったし」と穏やかに言い、「これあげる」とスピッツの「名前をつけてやる」をわたしに差し出した。聞けば中古で売っていたのを見つけて買ったのだという。当時のわたしは、まだスピッツのアルバムを歯抜けでしか持っていなくて、「名前をつけてやる」はその歯抜けの一枚だった。わたしを待つ時間怒りもせずのんびり本を読んでいた彼。誕生日でも何かの記念日でも何でもない日に貰ったCD。どちらもわたしにとっては驚きで、そしてとても素敵だった。後から思えば実に恋人らしい一幕で、だからこの場面をよく思い出すのだろうなと思う。

恋人との思い出だけでなく、25年という人生の中で何かにつけて思い出す場面というのがいくつかあるなあと思う。冬の日に幼稚園バスを父と待っていると、父がはーっと白い息を吐いて「ゴジラ」と言ってわたしを喜ばせていたこと。小学校で漢字を習うのが嬉しくて、家に帰るなり母に今日習った漢字の報告をしていたこと。初めて告白した人にいいよと返事をされて、あまりの嬉しさに飛び跳ねたら廊下の壁で腕を擦りむいたことと、付き合ってから彼に宛てて何枚も書いたたくさんの手紙。祖父がうちの犬を撫でて目を細めていて、おじいちゃんは犬が好きなんだなと思ったこと。そんな祖父のお葬式の末期の水は、祖父がコーヒー好きだったためにコーヒーだったこと。クラスの女子に事実無根の陰口を言われたこと。東京の兄を訪ねた際に些細なことでわたしが怒って取り乱したら、こんな日はお風呂に入ってゆっくりしなよとお風呂を沸かして入浴剤を渡してくれ、ごめんねと言うと、まあこういうのも許せるのが家族なんじゃないと言われたこと。犬が死んでしまってから落ち込んでいた父の背中。自分が他人に好かれているか自信がないと酔って吐露したら、みんな君のこと好きだと思うし自分も好きだよと言ってくれた友人のこと。

いくつかの場面が頭の中で昨日のことのようによみがえる。わたしが死んでしまえば、消えてしまう記憶だ。そう思うとどうにかしてこの記憶を残しておけないものかと思ってしまう。記憶と、そのときのわたしの感情を、細やかに、そのときのざらつきをそのままに残せたらいいのに。残して何になるかは分からないし、きっとあまり意味のないことだろうと思う。けれど、ひとりの人間が一生懸命悩んだり、全身で喜んだり、そうやって精一杯生きたことが消えてしまうのかと思うとちょっぴり虚しい。

そんな虚しさを紛らわしてくれるのも映画な気がする。映画をみるとき、そんな自身の個人的な記憶を映画のなかの物語に重ねてみることがある。個人的な記憶と重なる映画は、例え画面が美しくなかろうと響くものがあるくらいだ。わたし自身の経験は消えていくだろうけれど、わたしが感じたような喜びや、わたしが感じたような悲しみは、別の誰かの経験として映画のなかに存在し続けるんじゃないだろうか。映画の中の物語は決してわたしのものではないけれど、似たものがそこにあるというだけで、映画を見ている時だけでも人は安心したり、孤独から解放されることができる。映画を見続ける理由は自分でもよく分からないけれど、その理由のひとつは記憶の喪失の虚しさから逃れるためなのかもしれない。

 

きりきり舞いの

「きりきり舞いの美少女」という表現、何度聞いてもはっとするほど素晴らしい。突き抜けた美をありふれた修飾で飾るのではなく、きりきり舞いという言葉をくっつけてしまうのはもう天才。この素晴らしい表現を天才という言葉でしか讃えられないことが悲しくなるくらい。

この素晴らしい表現は、わたしが大好きなザ・タイガースの同窓会期に出された「色つきの女でいてくれよ」の歌詞で、作詞は阿久悠。聞いていてはっとして誰の詞だと思って歌詞カードを見ると阿久悠、ということがもう何度あっただろう。阿久悠の歌詞ではっとしたものといえば、これまた大好きなジュリーこと沢田研二の「麗人」に「音楽が聴こえない抱擁ならば 華やかな幕切れにした方がいい」という一節があるけれど、これもまた。抱き合うふたりの関係が終わろうとしている空気か、その関係の虚しさか、解釈は色々あると思うが、とにかく良くはない状況表すに「音楽が聴こえない」を持ってくる。これをセンスとか才能というのだろう。

きりきり舞いの美少女といい、音楽が聴こえない抱擁といい、自分は何に感動しているのか考えてみると、いずれも「美少女」「抱擁」という言葉が、他の人が思い付かないような言葉で飾られていることに感動しているのだと気付く。その上、思い付きもしなかった自分なのに、聴いた瞬間その表現以外あり得ないと思えるくらいその言葉の組み合わせがしっくりくる。シンデレラのガラスの靴くらい運命的な組み合わせだと思ってしまう。

昔、もう10年以上前なんじゃないかと思うけれど、テレビを見ていたら俵万智がすごいと思った詞について話していて、そのなかでサザンの「勝手にシンドバット」の「胸さわぎの腰つき」という歌詞がすごい!と言っていたのを思い出す。胸さわぎと腰つきという、くっつきそうもない2つの言葉をくっつけているのがすごいのだと、俵万智が言っていて、当時小学生だか中学生だかのわたしはなるほどなあと思ったのだった。「勝手にシンドバット」という曲名自体が、ジュリーとピンクレディーのくっつけ技だということは当時知らなかったけれど。

単にくっついているのを見たことがない言葉同士をくっつければいいという訳ではなく、他のどんな表現よりもぴったりで、素敵でなければならないというのが難しい。

最近、『ロッタレイン』という漫画を読んでいたら、そのなかで「暴風と 海との恋を 見ましたか」という川柳が引用されていて、こんな表現があるのか!と冗談ではなくめまいがしそうになった。嵐の様子を、暴風と海の恋と表すだけでもとんでもないのに、見ましたかという問いかけがやけに心に響く。調べてみたら、鶴彬という石川県出身で反戦川柳でよく知られる作家の作品だった。気になって作品集を買ったので、読むのが楽しみ。これはくっつかない言葉と言葉をくっつけて……という訳ではないけれど、嵐の様子を恋と表す独自性、それは前の阿久悠の歌詞とも通じる気がする。

素敵な表現にはっとしてときめいて、それだけでもまあ幸せだけど、死ぬまでに1個でいいからこういう素敵な表現を自分のなかから生み出してみたいよなあ、と考えつつ、今書いたこの文章を読み返してそんなセンスは無さそうだなとちょっと悲しくなったので、こんな時間だけどおやつでも食べて元気出そうと思います。